第10回 その時間は誰のもの?:家族送迎負担と成長戦略のポリティクス

家族だから送り迎えして当然?

 2026年6月、国土交通省から、気になる文書が公表された。

 タイトルは、「『交通空白』解消に向けた取組方針2026~『地域の繁栄の礎』として、地域と個人の成長を阻む『見えない壁』の打破を目指す~」(以降、取組方針2026)。交通空白とは、地域住民や来訪者が、移動に必要な交通サービスを十分に利用できない状態、もしくはそうした地域を指す。

 取組方針2026は、公表当初から、交通関係者や研究者の間でちょっとした話題になっていた。早速読んでみると、どうにも気になる記述を見つけた。いや、記述が気になるという言い方は正しくないかもしれない。気になったのは、ある問題について書かれた文章を支える論理のほうである。

 それが、「家族送迎負担」に関する部分。家族送迎とは、塾に行く子どもの送迎や、最寄り駅まで遠い中高生の通学の送迎、土日に部活動に行く子どもの送迎、一人で移動することが難しい親の通院や買い物のサポート、障がいのある家族の送迎などを、家族の誰かが担っている状況を指す。

 私の家は、祖母の介護が長かったので、母と協力して頻繁に病院やショートステイに連れて行っていた。祖母は歩くのがつらくなって、かつ外に行くのも億劫になりがちになり、どうしても体の運びが重くなる。身体は大きい方ではなかったが、そうなると、付き添いが一人では不十分で、ときには家族総出で祖母を車に乗せていた。

 何気ない日常の苦労は、これまで、「家族だから当然」と思われてきた。もちろん、すべてを家族が担っているかといえばそんなことはなく、負担しなくても大丈夫なときもある。祖母の場合、平日はほとんどデイサービスに通っていた(認知症を患った本人は、「学校に行ってくるね」といつも言っていた)ので、朝夕の送迎は外注していたことになる。平日の朝9時に祖母を送ることは不可能だったので、とても助かっていた。

 このように、交通事業者・移動支援者、福祉事業者によって支えられていれば家族が担う必要のない移動のケアは、意外と多くある。しかし実態としては、家族の誰かが担っているケースが依然として多く、なかでも女性の割合が高いこと、女性の負担感が大きくなる傾向が指摘されている[1]

 自著『移動と階級』のなかでは、次のように書いた。

 家族による送迎は、本来は公共交通によって補われるべき移動を個人が無償で担っているという見方もできる。ならば、その時間や距離に応じて行政が実費を負担するべきなのではと。なぜなら、行政が個人の負担にフリー・ライドしているとも言えるからである。さらに、こうしたケースでは多くが家にいる可能性が高い女性の負担となりやすい(伊藤, 2025:225)。

 取組方針2026では、これまで交通政策・交通統計で不可視化されてきた家族送迎負担が、政策課題として明示的に書き込まれた。これは、かなり革新的なことであり、いままで見ないことにしていた領域に、政府が手当することを決断したのである。

ケア・モビリティと「誰かのための移動」の可視化

 家族送迎のような、私的領域・家族領域にて無償で行われているケアのための移動を考えるとき、「ケア・モビリティ(Mobility of Care)」という考え方は、その糸口となる。

 ケア・モビリティは、「他者のケアや家庭の維持のために大人が行う無償労働に伴って生じる移動」と定義される(Chizzali, Ravazzoli and Dianin, 2026)。2013年に、都市計画学者のサンチェス・デ・マダリアガが提起して以降、ケアのための移動を捉える概念として徐々に広がってきた(Sánchez de Madariaga, 2013a, 2013b)。

 ケア・モビリティ論の核心は、それまで通学や通院、買い物など別々に語られ、議論されていたケアのための移動を、「誰かの生活を支えるための移動」として総体的に概念化したことにある。概念化することで、初めてその実態や課題性が顕在化された。

 日常的な移動パターンを分析する際に、ジェンダーを無視することはできない。たとえば、家庭維持のための活動をめぐるジェンダー役割分業に関する研究からは、男性に比べて女性が負担を強いられる傾向にあること、母親は子どもの送迎や日常の移動を担う割合が高いこと、こうした傾向は社会的・制度的要因による差はあるものの、オーストラリア、英国、スペイン、フィンランドの4か国を比較した研究などから、ある程度万国共通であることが明らかになっている(Craig and van Tienoven, 2019)。

 ケア・モビリティは、不可視化されてきたケアのための移動を概念化し、誰が移動を担っているのかに光を当てることで、そこに存在するジェンダー・ギャップを浮かび上がらせた。ケア・モビリティの主体は、移動距離や移動時間だけみると、縦横無尽で、頻繁に移動しており、ときに自由に移動しているようにさえ思える。しかし、その人は、多くの場合、自分が行きたい場所へ移動しているわけではなく、日によってはかなりの時間を、他の誰かが行きたい/行かなければならない場所へと移動するために割いているのである。

 何度も強調するが、今回、取組方針2026が家族送迎負担を解消すべき問題として取り上げたことの社会的・政策的意味は大きい。このことは、称賛に値する。これまで、「家族だから当然」「運転できる人が、できない人を送るのはしょうがない」とされてきたことを、よくない負担と認識し、無償労働(取組方針p.3)であると公的に認めたのである。

家族送迎負担は、どのように「問題」とされたのか

 本来であればここでキーボードを打つ手を止めて、よかったよかったとパソコンを閉じたいところなのだが、取組方針2026を読み進めると、ところどころ、どうにも引っかかる記述がある。そこで、少々長くなるが、家族送迎負担について書かれた箇所を抜粋しながら追って読んでいくことにしよう。

 移動手段の制約は、通勤・通学・通院・買い物といった基本的な生活行動に加え、就業機会、学びや観光・体験の機会、健康の維持、社会参加といった、個人や地域の成長に直結する活動全体に影響を及ぼしている。とりわけ、家族内での送迎負担や、外出そのものを諦める行動の積み重ねは、表に見えにくい形で地域や個人の成長を阻む「見えない壁」となっている。[2]

 まず、移動手段の制約が個人や地域の成長に影響するとしたうえで、家族内での送迎負担や外出そのものを諦める行動の蓄積が、地域や個人の成長を阻む「見えない壁」になっていると指摘している。

 この表現は、言い得て妙だと思う。バス路線や鉄道が廃線になると、新聞や地域の広報誌で取り上げられ、自然と可視化・問題化される。しかし、その結果、毎朝30分早く起き、子どもを送迎しなければならなくなった家族の負担や、有給をつかって勤務を調整し、家族を病院に連れて行くようになった実態は、交通統計では不可視化されてきた。

(1)家族に内在化する「時間の壁」 

 「交通空白」がもたらす最も象徴的な影響は、家族送迎という形での可処分時間の損失である。公共交通が十分に機能しない地域では、高齢家族等の通院・介護サービス利用や子供の通学・課外活動を、家族や近所の方々が送迎によって支えざるを得ない場面が日常化している。 

 今後、病院や学校の統廃合が進展していく中で、家族送迎による時間負担は一層大きくなってくることが想定される。また、少子化に伴い、学校部活動を巡る状況が厳しくなっている中、子供たちに豊かなスポーツ・文化芸術活動の機会をどのように保障していくかが課題となっている。 

 このような医療や教育を巡る状況の変化に伴い、公共交通の充実も含めた適切な移動手段の確保を行わない場合、これらの送迎は無償労働として扱われ、統計上は可視化されにくいが、実態としては週あたり数時間から10時間程度に及ぶケースも少なくない。加えて、送迎は週全体にわたって朝夕や特定の時間帯に発生することが多く、可処分時間を断片化させ、就労可能時間を大きく制約する。 

 この結果、家計における所得の低下を招き、これにより消費自体の低迷を引き起こすこととなっている。

 また、家族送迎負担はとりわけ現役世代(運転免許を取得できる18歳~64歳)の女性に偏在する傾向が強く、短時間就労や非正規雇用への移行、管理職登用の断念、さらには介護等を契機とした離職を通じて、個人のキャリア形成や所得水準にも長期的な影響を及ぼしている。[3]

 長々としたこの文章で注目したいのは、「可処分時間を断片化させ」るという表現である。この意味は、一日のなかでコマ切れで何度もケアのための移動が生じることによって、自由に使える時間がまとまって確保できない、ということだと考えられる。

 たとえば、朝8時に子どもを最寄り駅まで送り、15時半に迎えに行き、買い物などをしたのち、17時に子どもを今度は塾へと送り、そのあと家に戻ってご飯を食べ家事をして、20時に塾に迎えに行くとする。実際に車を運転している時間を足せば1時間から1時間半ぐらいかもしれない。しかし、断片的にケア・モビリティが生じることで、まとまった自由時間や就業時間の確保は難しくなってしまう。

(2)地域経済の稼ぐ力を削ぐ「経済の壁」 

 個人レベルで発生した時間制約や就業制約は、やがて地域経済全体に波及する。

 家族送迎負担による就業時間や就業機会の制約は、地域産業における担い手不足の常態化や生産力の低下につながり、域内所得や消費、投資の低迷を招く。地域の「稼ぐ力」が失われ、この結果、さらなる人口流出を加速させるという悪循環が生じる。

 加えて、交通利便性の不足は、地域内における消費の機会そのものを制約している。移動手段が限られることにより、住民や観光客が外食や買い物、各種サービスの利用を控える傾向が生じ、飲食業や小売業をはじめとする地域の産業において、本来得られるはずであった売上が失われている。こうした「機会損失」が積み重なることで、地域経済の活力を静かに削ぐ要因となっている。[4]

 ここでは、前述のような個人・家族レベルでの時間的・移動的制約が、結果的に地域経済にも影響を与えていると指摘する。地域の「稼ぐ力」を失わせ、人口流出を加速させ、地域内消費の機会を妨げている。そうした機会損失が積み重なることで、地域経済の活力を削いでいると言う。そして、さらに話は大きくなる。

 こうした「機会損失」や「国民負担」について、短期的には、家族送迎負担による可処分時間の損失や就業機会の逸失、利便性の制約による消費機会の逸失、移動手段の制約による地方誘客、観光消費の逸失、外出の制約に伴う高齢者等の健康面に与える影響からくる医療・介護負担の増大など、多岐に渡る要素が複合的に発生している。これらを総合的に勘案すると、個々の家庭や地域が個別に抱える問題にとどまらず、我が国全体の成長力や持続可能性にも影響を及ぼし得る可能性があると考えられる。さらに、教育や体験機会の制限が子供たちの将来に与える影響や、可処分時間の減少による少子化への影響といった長期的要因、交通利便性の低下による不動産価格への影響等までを含めて考えれば、その波及効果は短期的な経済面にとどまらず、中長期的に地方部へ負の影響を与える可能性がある。[5]

 一見すると個人的な問題が、国家全体の成長力や持続可能性に影響を与える。さらには短期的な経済面にとどまらず、中長期的に地方部への負の影響を与える可能性がある、と畳みかけるのだ。個人事としてはじまった記述が、あっという間に国家規模の話になった。

なぜ「地域の稼ぐ力」「日本の成長力」まで持ち出すのか

 ある問題が公的に解決すべき課題となるとき、そこには必ず「なぜ、解決しないといけないのか?」の説明が伴うこととなる。何をするかも重要だが、なぜするのか、なぜ重要なのか、も同じぐらい重要なのだ。

 そこで、取組方針2026における、家族送迎負担の解消の正当化論理を、思い切って単純化してみることにした。すると、以下のように表現できる。

① 家族送迎負担によって、自由に使える時間(可処分時間)が失われる

② 働ける時間が減り、所得が低下する

③ 所得や消費が減り、地域産業の生産力も低下する

④ 地域の「稼ぐ力」が失われる

⑤ 日本全体の成長力や持続可能性にも影響する

 取組方針2026に覚えた私の違和感がわかってもらえただろうか。取組方針2026において、家族送迎負担という問題は、個人の時間や暮らしの問題として始まった。しかし、気がつけば負担解消の正当化論理は、所得や消費、地域の「稼ぐ力」、さらには「日本の成長力」にまで結びついている。家族送迎負担の軽減によって就業機会が広がり、所得や消費が増え、地域経済にもよい影響が生まれること自体に問題があるわけではない。むしろ、そうした効果が本当にあるのなら、それは望ましいことだろう。

 だが、そうなると気になるのは、一体、これは誰のための、何のための負担の解消なのだろうか、という点である。個人の負担が減り、自分の時間を取り戻し、より自由に暮らせるようになるだけでは、家族送迎負担を解消する十分な理由にはならないのだろうか。

 つまり、「なぜ、家族送迎の負担を減らすべきなのか」という問いに対して、個人を越える正当化論理が次々と積み上げられた結果、「ケアする人を自由にする」という論点が、いつの間にか、ケアする人を「より『生産的な労働者』にする」という論点へとすり替わっているようにみえるのである。誤解を恐れず言えば、ここで展開されているのは、「経済成長に役立つから、ケアする人の負担を減らすことには大きな政策的価値がある」という論理なのである[6]

その時間は誰のものなのか

 正当化論理のねじれについて、もう少し考えてみたい。そもそも、家族送迎に使われている時間を、「市場経済のもとで、労働しなかった時間」と捉えてよいのだろうか。取組方針2026では、家族送迎による負担が、主として就労可能時間の制約や所得・消費の減少との関係から問題化されている。しかし、その送迎という行為そのものが、どんな価値を持っているのかはほとんど語られていない。あたかも、送迎負担時間は、無価値であるかのように書かれているのである。

 たしかに、育児や介護、家事、他者のケアの多くは、市場取引されず、賃金も発生していないことが多い。だからこそ、政策文書の中でも、「無償労働」という言葉が登場していた。

 しかし、社会、もしくは日常生活は、多様なケアとその担い手がいなければ成立しない。そう考えると家族送迎は無価値ではなく、さまざまな人々によるケアと同様に、他者の暮らしを成立させるための価値ある時間である、と考えられないだろうか。

 企業が生産活動を通じて利益を得られるのは、労働者が食事をして、休息をとって、家族や親しい人と過ごして、翌日も元気に働けるからでもある。これは、当たり前のことではない。また、社会が続いていくためには、次の世代が生まれ、育てられ、教育を受けることも必要になる。そうした日々の暮らしと次世代のための活動は、社会学やフェミニスト経済学において「社会的再生産(social reproduction)」と呼ばれてきた。そこには、家事や育児、介護、ケア労働など、市場では価値づけされにくい営みも含まれる。

 政治学者のナンシー・フレイザー(Fraser, 2016: 102)が指摘するように、こうした社会的再生産は経済活動の外側にあるのではなく、賃労働や経済生産そのものを成立させるうえで不可欠な条件である[7]。社会的再生産をめぐる理論は、労働力を再生産するために欠かせない再生産労働を、資本主義システムの内部に位置づけなおすことで、資本主義社会が、非市場領域で行われる膨大な無償労働に依拠していることを明らかにしたのだ(申, 2022: 38-39)。

 そして、そもそも考えてみたいことがある。ある人の1日の家族送迎負担が無くなり、2時間の自由な時間が生まれたとする。その人が、これまでよりも2時間分多く働けば、所得が増え、消費が促され、地域の稼ぐ力にも貢献し、ひいては地域経済・日本経済は成長する、という連鎖が取組方針2026では示されている。

 では、もしその人が経済活動ではなく、2時間分の休息を取ることにしたらどうなのだろうか。2時間分、昼寝をしたら、窓辺でぼーっとしたら、散歩やガーデニングに時間を充てたら、いけないのだろうか。経済活動以外を選択した場合、家族送迎負担を解消した政策の価値は無くなるだろうか。

 そんなバカなことはないだろう。なぜなら、その2時間は、地域経済のための時間でも、国家の成長のための時間でもなく、「その人のための時間」なのだから。何をしたっていい。しかし、そうした時間の使い方は、少なくとも取組方針2026が理想化する主体像では想定されていないのである。

 家族送迎負担の問題は、「移動の自由は誰のものなのか?」という本連載のテーマとも密接に関連している。家族送迎負担と政策をめぐる問題が問いかけるのは、ある人の自由な移動が、誰の「移動しなければならなさ」に支えられているのか、という点だ。

 交通空白を埋める、家族送迎負担を解消するとは、ケアを担ってきた人をもっと働けるようにすることとイコールではない。働くも働かないも、生産活動をするもしないも、選択可能な状況にあることこそが重要なのである。なぜなら、有無を言わさず負担を強いていることが問題なのだから。

 換言すれば、誰かのために移動せざるを得なかった人が、自分の時間と移動を、自分で選べるようにすることこそが重要なのである。私の移動は、誰かのものではなく、私のものである。それを実現する時間も、誰かのものではなく、私のものである。この当たり前とも思えることが、生産性や経済成長、持続可能性が至上主義化される現代社会では残念ながら脇に置かれてしまう。

 家族送迎負担の解消が、個人が自分の時間や移動の自由を取り戻すことだけではなく、「強い経済」への貢献にまで接続されると、どうなるのか。より強くそれが正当化される社会は、国家の持続可能性や発展が、個人の幸福追求よりも上位の価値として置かれる可能性をはらんでいる[8]。住む場所や属性に関係なく、日々の暮らしに必要な移動が保障される権利や、誰かの移動を支えるために別の誰かが時間を差し出し続けなくてもよいという公正の理念が必要だ。だが、取組方針2026を読むと、同時に現状はいかに脆い足場の上に成り立っているのかを物語っているように思えるのである。


[1] 山陽新聞社が2025年に行った調査では、送迎を担っている回答者のうち女性が54%、男性が46%、送迎の対象は、子どもが55%、配偶者29%、自分の親27%、配偶者の親7%であった。また、負担感については「負担は感じているが仕方ない」が33%、「良い時間ではあるが負担は感じる」が32%、「負担感が大きく、できれば送迎したくない」が5%を合わせ7割の人が負担を感じていた。特に女性の20~50代は8割を超える強い負担感を有している。なお、家族との会話の機会になるなど「とても良い時間で負担を感じない」は、男性が23%、女性が10%と男女差が大きい結果となった。山陽新聞社(2025)「送迎交通で女性に重い負担感 本紙アンケートを研究者分析 公共交通強化を提言」(最終閲覧, 2026.8.12, https://www.sanyonews.jp/article/1831090

[2] 「『交通空白』解消に向けた取組方針2026」p.2.

[3] 「『交通空白』解消に向けた取組方針2026」p.3-4.

[4] 「『交通空白』解消に向けた取組方針2026」p.4.

[5] 「『交通空白』解消に向けた取組方針2026」p.5.

[6] 気になって調べてみたところ、この論理を支える、違和感ある言葉が別の場所にもあった。取組方針2026の決定を告知する国土交通省のWebサイトを開くと、家族送迎負担の解消を含む、交通空白の解消は、「まさに成長戦略の一翼を担う取組である」と明確に位置づけられていたのである。国土交通省(2026)「【令和8年6月10日】 金子大臣を本部長とする第6回『交通空白』解消本部を開催し、新たな方針を決定」(最終閲覧2026.8.10 https://www.mlit.go.jp/page/kanbo01_hy_010925.html)

[7] フレイザーは、資本主義社会は社会的再生産と経済的生産を制度上切り離し、前者の重要性や価値を見えにくくしているにもかかわらず、経済的生産は社会的再生産に依存しているとも指摘している(Fraser, 2016: 103)。

[8] 地理学者の中澤高志は、優れた地方創生批判として知られる論文の中で、地域政策の理念と目的、そして地方創生のあり方について次のように論じている(中澤, 2016: 298)。

 「地域政策は資本主義の下で必然的に発生する機会および結果の地域間格差を是正し、可能な限りの地理的公正の達成を理念とするべきであって、一国の経済成長や人口の維持・増加を目標とし、それを達成するにあたって効率的な地域構造を維持するために用いられるべきではないとの立場から、『地方創生』論を批判してきた。こうした批判が意味を持つのは、個人の幸福追求が国家に優先し、かつ社会的公正が規範として機能する社会においてのみである。しかし、個人の命よりも『日本という国の悠久の歴史が続くこと』を願う精神が頭をもたげ、国民の格差に対する問題意識が実態以上に薄らいでいる社会において、自由や平等といった社会正義を守ることは自明に重要であると断言できるであろうか。」(引用文中の文献表記は一部省略)

 家族送迎負担の解消は交通政策として議論されているものだが、中澤が論じる地域政策をめぐる議論は、極めて示唆的である。家族送迎負担の解消が、個人の時間や移動の自由を取り戻すことだけではなく、「強い経済」への貢献と結びつけられることで、より強い政策的正当性を与えられるとすれば、そこでは国家の持続可能性や発展が、個人の幸福追求よりも上位の価値として置かれてはいないだろうか。重要なのは、順番である。移動をめぐる格差や不平等が改善され、個人がより自由に移動し、幸福を追求できるようになれば、結果として働きやすくなり、所得が増え、地域経済にもよい影響が生まれるかもしれない。しかし、人間の自由や幸福の追求が、それ自体として守られるべき価値では無くなり、経済成長に貢献するからこそ守られるべきものとして位置づけられるとすれば、話は違ってくる。経済成長の結果として人びとの自由や幸福が保障されるのか。それとも、人びとの自由や幸福を保障した結果として、経済にもよい効果が生まれるのか。似ているようで、この二つはまったく違うのである。

参考文献

Carolina Chizzali., Elisa Ravazzoli. and Alberto Dianin. (2026) The role of the Mobility of Care in rural areas: An exploratory analysis in South Tyrol, Regional Science Policy & Practice, 18(5): 100295.

De Madariaga, Inés Sánchez. (2013a) From Women in Transport to Gender in Transport: Challenging Conceptual Frameworks for Improved Policymaking, Journal of International Affairs, 67 (1): 43–65.

De Madariaga, Inés. Sánchez. (2013b) Mobility of care: Introducing new concepts in urban transport,  Marion Roberts. and Inés Sánchez de Madariaga. eds, Fair Shared Cities: The Impact of Gender Planning in Europe, Routledge, 33-48.

Fraser, Nancy. (2016) Contradictions of Capital and Care, New Left Review, 100: 99–117.

Lyn Craig. and Theun Pieter van Tienoven. (2019) Gender, mobility and parental shares of daily travel with and for children: a cross-national time use comparison, Journal of Transport Geography, Volume, 76: 93-102.

伊藤将人(2025)『移動と階級』講談社.

申琪榮(2022)「社会的再生産理論(SRT)を手かがりに読み解くコロナ禍」『年報政治学』73(1): 35-52.

中澤高志(2016)「『地方創生』の目的論」『経済地理学年報』62: 285-305.

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