1 雁皮-雁皮紙のエコシステム
雁皮の種の発芽率は、高くはない。雁皮の栽培法を研究してきた今井三千穂氏によれば、初年度の発芽率は10%を切る。2年目は40%近くにあがるが、3年目は15%まで下がる。その翌年から10%をきるが、それでも毎年発芽する種がある。今井氏の実験では14年目まで発芽を続けた。雁皮の種は水をわずかに吸収するため、いわゆる硬実種子ではない。種は死なずに土の中で生きる。種は様々なタイミングで発芽し、生育に適した時期にあたった個体が成長し、子孫を残していく。
雁皮の生育は森や土壌の影響を受ける。人が柴を刈る。薪や材木にするために、木を伐り、枝を落とす。森に光が入るようになると、雁皮が芽を出し、育つ。植林の針葉樹が育って光を遮るようになると、雁皮は生えなくなる。豊かな土壌では競合する他の樹木に負けてしまうが、やせ地で崩落しやすい土壌には、競合する樹木がなかったり、あったとしても崩落によって倒れたりするために、雁皮が育ちやすくなる。
雁皮は紙になり、紙になった雁皮は美術や文芸作品に使われる。
雁皮紙は、和紙職人や製紙会社の技術、道具、機械、そして水やノリなどの原料によって生産される。雁皮を紙にする技術を持った人は限られるが、紙になった雁皮は様々な人の利用にひらかれる。雁皮紙の生産も様々な条件に左右される。雁皮自体が採れなくなれば雁皮紙もつくれないが、雁皮を漉く職人がいなくなれば、あるいは抄く機械を動かせる人がいなくなれば、やはり雁皮紙は生まれない。また、雁皮があり、それを漉く人や機械が存在したとしても、雁皮紙の需要がなくなれば、生産されなくなる。
そういったものごとの結びつき――それを雁皮―雁皮紙のエコシステムと呼ぼう――の中に、雁皮と雁皮紙は存在する。いまのところ人間はこの雁皮のエコシステムを十分に管理できていない。雁皮紙―雁皮の需要がどんなに高まったとしても、安定供給は難しいのだ。それは実際に、現在、人間がエコシステムを管理しようとしておらず、たとえばレアメタルや、マグロのようには、資源を管理する欲望を本気でもっていないことを意味する。雁皮の栽培はまだ体系化されていないし、自生する雁皮を効率的に資源管理する方法がいまのところ存在しない。さらに、雁皮紙を持続的に生産し、消費するためのエコシステムもまた存在していない。
わたしは雁皮と雁皮紙が生まれるエコシステムをたどってきた。そして今もたどり続けている。決して計画的に調査しているわけでもないし、体系立てて理解しているわけでもない。わたしにふれた雁皮にかかわるものが、あるいはそのものにふれた誰かが、わたしの手を引く。
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タコの知性のことを思う。
ジャーナリストのジェームズ・ブライドルは著書で、哲学者ピーター・ゴドフリー=スミスらの頭足類の研究[ゴドフリー=スミス2018]に触発されて以下のように語っている。タコの脳は頭部にはなく、胴体から8本の足の隅々にまで広がっている。足には頭に制御されずに働く神経の束があり、必要に応じて動き回る。それぞれ動き回るものの連合体としてタコの精神は存在する[ブライドル2024:76]。人間は脳が身体のすべてをコントロールしているのだとしたら――しかし、本当にそうなのだろうか――タコは、人間よりもはるかに複雑で、共生的な精神を持っている。
同じように、わたしは誰かに導かれて雁皮―雁皮紙のエコシステムに出会う。あるいはそのエコシステムの中に取り込まれている自分を見いだす。
四万十町のシマオカさんが、自生している雁皮を見せてくれたのは、2017年だった。「ヒノ(雁皮)が生えている」といって、わたしを御成婚の森という名の山に導いた(「雁皮は囁く」第2回参照)。それが雁皮をめぐる「物語」の扉となった。
2017年よりも前にわたしとともに四万十を訪ねた和紙職人のタニノさんとの出会いが、シマオカさんの雁皮へのノスタルジーをかき立てた。シマオカさんは、わたしに雁皮を示しながら、それをタニノさんに伝えてほしいと語った。そこから、わたしと雁皮の世界は始まった。
雁皮にであったわたしは、雁皮についてあちこちでかたり、様々な人たちがわたしに雁皮のありかを教えてくれる。そうやって考えると、雁皮のありかを教えてくれる人や、一緒に雁皮を探す人、そしてわたし自身は、タコの足のようである。雁皮や雁皮紙にゆるやかにつながりながら、雁皮と雁皮紙をめぐる精神をつくり出していく[1]。
ブライドルは、生態学(エコロジー)とは、「あらゆるものをあらゆるものと結びつける断ち切れない紐についての研究」だとする。そして「重要なのは、そうした関係は存在だけでなく物にまで拡張されることだ」と述べる。その呼びかけに答えて、雁皮が雁皮紙になったあとに生まれるエコシステムをたどってみよう。
2 荷風の日記:雁皮紙との協働
清水市興津のみかん山に暮らすヤマナシさんに、永井荷風の『断腸亭日乗』に雁皮紙についての記述があると教えられたのは2025年の冬のことだ。ヤマナシさんは内装業の仕事を辞めた後、父親から相続したみかん山に、知り合いの大工に頼んで建てた小屋で暮らすようになった。みかんの貯蔵庫兼休憩場所として小屋を建てる人は周りにいるけれど、そこに暮らす人はいない。囲炉裏も風呂も完備してあった小屋にヤマナシさんは暮らし、晴れた日はミカンの世話をし、雨の日は本を読んで暮らしている。そんなふうにして読む大量の本の中に、『断腸亭日乗』があった。
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『断腸亭日乗』は、永井荷風が大正6(1917)年から亡くなる昭和34(1959)年まで書いた日記である。手帳などに鉛筆で下書きされたものを、日本橋にある和紙と和紙製品を販売する「榛原」製の十行罫の用紙を綴じた手帳に、墨と筆で浄書された[2]。
用紙は雁皮紙である。荷風は雁皮の紙の書き心地を愛した。文字だけではない。荷風は、出会った人々や風物についての図絵を雁皮の紙に残した。雁皮の繊維は細く短い。そのため、漉かれた紙は肌理が細かく、墨汁をよく吸って滲まない。防虫効果もあって、保存性も高い。
荷風は、雁皮の手帳が失われていくことを憂いていた。大正10(1921)年6月17日には、次のように記している(編集部:以下、引用部について、漢字は新字体があるものは原則として新字体を採用し、反復記号は一部かなに処理した)。
六月十七日。日本橋に大石国手を訪ふ。途次榛原帋舗の前を通過ぎし故、雁皮紙罫引帳面を購はむとせしに、近頃雁皮の製本をなす職人少くなり、又之を求むる顧客も稀になりたれば、出来合の品売切になりしまゝ備へ置かずといふ。是亦時勢推移の一現象なり。雨を恐れしが雨来らず[3]。
その後、手帳の在庫は復活したようだ。しかし値段は大きく上がった。5年後の大正15(1926)年、榛原に置かれた雁皮紙の手帳は、一冊2円余りになっていた。大正7、8年の頃の2倍の値段である。製本職人と、需要の減少は、値段を大幅に上げた。日中戦争がはじまる昭和12(1937)年には、雁皮罫を摺る職人が前年に亡くなってしまったため手帳が手に入らなくなった[4]。2年後、昭和14(1939)年、出入りの書家から榛原製ではない、罫のない雁皮の手帳を譲り受けた。家に残っていた一〆の雁皮紙を、書家は製本師にたのみ手帳十冊に仕立てた。この日の日記に荷風は次のように記す。
雁皮紙手帳は数年前迄東京中にて日本橋の榛原紙店のみ此をつくりゐたりしが、今は職人もなく買ふ客もなくなりしとて作らずなりしなり。猪場君の贈られたる手帳一冊の紙数二百枚ほどなり。一年の日記に一冊を要するとすればまさに十年分は有るわけなり。余年六十一歳なり。猪場氏贈るところの手帳十巻を費し尽すの時まで生き得るものにや。覚束し[5]。
一冊書くのに一年費やすのだとしたら、書き尽くすまで10年かかる。このことは、還暦を過ぎた荷風を喜ばせた。
しかし、その手帳たちを戦火が奪った。六本木にあった永井が暮らす洋館は、昭和20(1945)年3月10日未明の東京大空襲によって消失する。近隣に燃え広がる炎は、永井が眠る部屋の窓を明るく照らし、隣人はただならぬ声で叫んだ。荷風は日記と草稿を手鞄に入れて逃げた。やがて自宅は、大量の蔵書によって一段と火勢を増し、炎は空へと昇った[6]。
敗戦直後、昭和20(1945)年10月31日には、以下のような記載がある。
十月三十一日、風雨瀟々、午後雜誌新生また読売新聞の記者来話、さしたる用事でもなきに、東京より乘りがたき汽車に乘りて人を訪問する此の人達の生活も、亦奇ならずや、この雁皮紙帳面、麻布罹災前には猶四五冊ありしが皆灰となりぬ、細字に便なる眞かきの毛筆も今はなし、日本紙に毛筆を以て物かくことも、いよいよ困難となれり、戦争の禍害今更歎き悲しむも詮方なし、南無阿弥陀仏[7]。
毎日の日記をつづる、書きなれた雁皮紙がなくなってしまったことが、戦争の被害をあらわす。単に雁皮紙が失われたのではない。雁皮紙を前にし、一日を振り返り、それを文字にして記すという営みの全体が失われたのである。
荷風は別の和紙も使っていたが、やがてペンと大学ノートを使うようになった。体力の衰えもあり、浄書もされなくなった。昭和21(1946)年に、荷風は次のように記す。
止むことを得ず今日よりペンにて此の帳面に記入す。不快言ふべからず。初て戦争の被害の如何に悲しむべきかを知れり[8]。
荷風は、雁皮紙の不在によって、戦争が奪ったものを想う。
荷風は30年近くの間、雁皮の紙に日記を書き続けた。震災があり、戦争があった。荷風は東京の街のあちこちを歩き、様々な人と出会い、そして世相を論じた。さらさらと進む荷風の手の運びと筆と、雁皮の紙の協働は、戦争によって奪われた。
雁皮紙を綴じた手帳は、その後、どこかでつくられたのだろうか? 雁皮紙に日記を書く人は、荷風の後にいたのだろうか?
3 書物の意匠:日本近代文学館の蔵書から[9]
『断腸亭日乗』はあくまで雁皮紙に書いた文字を、別の用紙に印刷したものだ。一方で、雁皮の紙で複製した日本の文学作品がある。
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日本近代文学館の所蔵本の中に雁皮紙が用いられたものがあるということを、職員のイシカワさんに教えていただいたのは2023年の6月のことだった。
イシカワさんには、2022年の11月に開かれた、フジハラさんの著書『植物考』と『歴史の屑拾い』のトークイベントで出会った。わたしはフジハラさんの対談相手に呼んでいただき、本の話題に花を咲かせながら、本格的な調査をはじめたばかりの雁皮の話をした。雁皮の話を覚えていたイシカワさんが、日本近代文学館の所蔵本を探してくれたのだった。
後日、東京の目黒区駒場にある日本近代文学館を訪ねた。駒場のあたりは、もともと緑が多い。緑が多いところに行くと、わたしは雁皮がないかとつい探してしまう。
近代文学館に到着すると、イシカワさんはすでに雁皮を使った資料を用意してくれていた。
日本近代文学館の所蔵資料において雁皮紙が使われているのは、特装本や限定本である。奥付には、本に使った紙をつくった和紙職人や製紙業者の名前が記載されている。たとえば、佐藤春夫の『一吟双涙抄』(野田書房/1935年刊)の奥付には「本版用紙ハ總テ出雲國安部榮四郎手漉雁皮紙ヲ用ユ」と、ルミイ・ド・グウルモン著、堀口大学訳『田園詩 シモオヌ』(裳鳥會/1934年刊)奥付には「本文用紙は越前杉原商店手漉局紙表紙用紙は出雲国安部榮四郎手漉雁皮紙」とそれぞれ記されている。作家や翻訳者だけでなく、文字や挿絵を印刷する紙を漉いた人たちにも作家性を認めている。『田園詩 シモオヌ』は挿絵が印象的で、森田恒友の『田園小景』(龍星閣/1954年刊)など、水墨画が挿画によく使われているこれは繊細な表現を可能にする雁皮紙の特性によるものだと考えられる。
高見順旧蔵書である山本千代喜『食事史』(龍星閣/1941年刊)は奥付に、「表紙ハ雁皮紙織 本文ハ手漉鳥ノ子紙」と書かれている。本書は、丸善が世界各国の酒・食に関する古今の稀覯・文献・好事本を蒐集し、明治屋の書庫に収めたものを、古銅版画と、古本版とともに、抜粋、翻訳したものである。「自序」では、同書が1941年12月の太平洋戦争の開戦の折、校正作業が進んだことに触れながら、タイトル、装丁、企画は悉く龍星閣主人澤田伊四郎が、本書と著者の前途を祝して餞た「苦心の賜物」であるとしている。これに続く著者の言葉「図らずもこの聖戦の門出に際会した自分として、西洋流の頽廃的な舌の食事史を卒業して、強き歯を以て皇国風の新食事史を編出さねばならぬといふ感激を換び醒ましてくれるよすがとなる廉によりこの過分の佳名を頂戴した次第です」を踏まえれば、そして、さらに後で触れる当時の和紙調達の困難さを踏まえれば、澤田が前途を祝したのは、この本や著者だけでなく、日本が始めた「聖戦」も含まれていたのではないか。
龍星閣は版画集や画集を多く出版した出版社であり、澤田は本の造本・装丁に並々ならぬ情熱をもっていた。竹久夢二や高村光太郎の名を高めたのも、澤田の功績によるところが大きい。高村光太郎は『智恵子抄』の成り立ちを、「亡妻智恵子に関する三十余年間の詩歌をまとめて一冊の本にする」という澤田の企画によるものだとしている。龍星閣の社史『造本一路 図録編』に収録された澤田の娘・澤田城子の「父・龍星閣のこと」によれば、1941(昭和16)年8月、「なじみの和紙問屋に残っていた高価な和紙をつかって、和紙本で『智恵子抄』を刊行。下職の人たちは「この時代にこんな甘い本が売れるものですか」と心配したが、たちまち版を重ねた」とある。ちなみに、初版本の見返しにも手漉き鳥の子紙が使われている(本文は楮を原料とする和紙である奉書紙)。
4 島尾敏雄の総雁皮本:「外部からの攻撃のひとつのかたち」
日本近代文学館で見せてもらった資料で最も印象的だったのは、プレス・ビブリオマーヌという版元が1969年に刊行した島尾敏雄『帰巣者の憂鬱』だった。
近江雁皮紙の漉元成子佐一郎による総雁皮紙の限定本として刊行された同書の「添え書き」で、島尾は20代の半ばに父から印刷費をもらって一冊の創作集を70部ほどだしたこと、それがずっと自分の背丈にあったことに思えたこと、しかし書物の発行部数を意志的に制限することのよろこびを理解できているのかあやしいこと、まして、装幀、造本、印刷など書物制作を行うことの楽しみを感受できるかも怪しいことについて書いたうえで、次のように書いている。
佐々木桔梗さんから総雁皮紙の意思的な限定本を、と誘われたとき、私はただ、外部からの攻撃のひとつのかたち、として受けとり、それに身をさらすことを観念したといえよう。それはひとつの変奏だと思い、或るテーマにいくつもの変奏がはたらきかけられるという状態はわたしを酔わせた。
総雁皮本での、自分の作品の刊行について、島尾が「外部からの攻撃のひとつのかたち」と受け取っている点は興味深い。それ以上に、島尾が記した妻のミホの反応が興味深い。
書物が出来上がって送られてきたとき、妻が興奮して、うれしいうれしいとそれを抱きかかえ、無邪気なよろこびを示したとき、私はそれを手にして、唐突に、またどういうことになって行くのかと思い、わが身の瘦せぐあいがあんたんとあらわれているのを見たのだった。
「帰巣者の憂鬱」が最初に世に出たのは、1954年の『文學界』である。この作品は『死の棘』で描かれた、島尾の女性関係が妻のミホに発覚する前の作品である。そうでありながら、この作品では島尾自身が家庭に倦んでいる姿が描かれるとともに、ナスと名付けられた妻が束の間に狂い、そして正気を取り戻す姿が描かれている。雁皮本が刊行された1969年、島尾たちは奄美大島に住んでいた。この年に島尾は自転車事故で入院している。「ミホはできあがった総雁皮本を抱きかかえ小躍りする。島尾はその妻の姿をまのあたりにし、そして雁皮本を手にして、衰えていくわが身の先にまたなにかが総おこるのではないかと嘆息しながら「私がこんな立派な造本を持つことは、きっとどこかおかしいにちがいない」と記す。総雁皮本を手にして別れた、夫婦の感情の起伏から、この時期の島尾夫婦について読み取れることは様々にあるはずだ。
プレス・ビブリオマーヌ(佐々木桔梗主宰)は限定本を数多く出した。日本近代文学館の所蔵にはないが、安部公房の『赤い繭』や『魔法のチョーク』も成子佐一郎が漉いた雁皮紙によって刊行している。
時代状況を踏まえて本の素材を探ることは、ある文章が世に出るプロセスを、より多元的に理解することでもある。文章だけでなく、その本の素材の選択について作家やその家族の意識を考えること、さらには編集者や出版社(印刷業者)の意識を探ることが、文学史をさらに多角的に理解する手掛かりになる。
雁皮紙は荷風の日記を、荷風とともに生み出した。雁皮紙は作家の作品を複製しながら、その存在感によって意味を新たに生み出していく。雁皮紙は作家や装丁家の知性と協働し、それ自体の知性をあらわしながら、総体としての精神を生み出していく。
雁皮本のしなやかな手触りを確かめる。書物に潜む雁皮の中に、まだ出会うべきものが潜んでいることを、タコの手足になったわたしは感じる。
註
[1] グレゴリー・ベイトソンは、人間文明の健康なエコロジーを、「人間の高度の文明と環境とが合体した一つのシステムにおいて、文明の柔軟性と環境の柔軟性とが協働し、根底的な(“ハードプログラム”された)諸特性のゆるやかな変化をも連れ立ちながら、たゆまざる前進を続ける状態(ベイトソン2000:654-655)」と定義している。文明の柔軟性と環境の柔軟性の協働という言葉は、雁皮と出会うことによってようやくわたしの腑に落ちるところがあった。わたしがやろうとしているのは、雁皮とともに、雁皮とともにある世界を理解しながら、そもそもわたしの理解の仕方や世界の向き合い方を更新していく意味でのエコロジーであるということに気づく。
[2] 永井荷風と榛原帋舗については、三田完のエッセイから多くを教えられた[三田2011]。なお、わたしは、日本橋の日本橋高島屋で6月3日から15日まで開かれていた「膠へのまなざし―再考、そして応答」に雁皮についての展示もあるときき、訪ねた際、道中にあった榛原に初めて行ったのだが、このときはまだ三田のエッセイを読んでおらず、荷風の書いた紙を復刻させた「十行罫紙」を探すことはしていない。復刻版は雁皮紙をつかっていないが、土佐和紙に松脂を混ぜて漉いており、「書き味はひけをとらない(三田2011:14)」とある。
[3] 『断腸亭日乗』(岩波書店、2024)一:149。大正10年6月17日の日記。
[4] 『断腸亭日乗』(岩波書店、1980)四:202。昭和12年8月30日の日記。
[5] 『断腸亭日乗』(岩波書店、1980)四:382。昭和14年6月19日の日記。
[6] 『断腸亭日乗』(岩波書店、1981)六:19-20。昭和20年3月9日の日記。
[7] 『断腸亭日乗』(岩波書店、1981)六:95。昭和20年10月31日の日記。
[8] 『断腸亭日乗』(岩波書店、1981)七、195。昭和21年1月19日の日記。
[9] 以下の記述は『日本近代文学館』315号に掲載した「書物の意匠:雁皮本をめぐる考察」を加筆修正したものである。掲載許可をいただいた日本近代文学館には深く感謝したい。
参考文献
ゴドフリー=スミス,ピーター2018『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』(夏目大訳)、みすず書房
ブライドル,ジェームズ2024『WAY OF BEING 人間以外の知性』(岩崎晋也訳)、早川書房
ベイトソン,グレゴリー2000『精神の生態学 改訂版第2版』(佐藤良明訳)、新思索社
三田完2011「断腸亭日乗と榛原紙舗」『図書』746:9-15
*ご愛読ありがとうございました。本連載は加筆修正のうえ、書籍化される予定です。詳細は、後日X(@nankyokko)などでお知らせいたします。
