第6回 さざなみのあわいに

1 計測可能性のほとりで:パッチということ

 国連憲章や国際法を無視した、力による支配が世界各地に広がっていく。「国際秩序」が守られないのは、今に始まったことではない。あの国はずっとそうだった。それでも、嘘をついて取り繕うのうか、それとも開き直るのかで、大きな違いがある。「自由競争」という言葉も同じだ。超大国の大統領のつぶやきを見越したように金を動かす人――それが大統領の身内であることすらある――に、さらに多くの金が集まる。わたしたちは最初から自由に競争などしていない。勝ち続ける人々がそれを開き直って正当化する。巨大資本が己の利益を最大化するようにアルゴリズムを操作し、生成AIの開発の道筋をつける。2000年代、未来をつくるものとして期待されたSNSは、人の感情を波打たせるもの、そしてSNSにアクセスしている時間を長引かせるものが優位に位置づけられ、なかなか抜け出すことのできない依存の対象となった。友人の日記を読んでいたはずのわたしたちは、いつしかターゲットされた広告や、滞在時間を延ばすために最適化された芸能ゴシップ、スポーツ記事、ショート動画を次々と提示され、見続けることを促されている。誰かの書いた文章を読んで、生成AIによって書かれたものであることを疑ってしまうのは、もはや大学のレポートだけではない。

 わたしたちは計測可能性に囚われている。わたしたちにとって、世界が計測可能になっていくのではない。わたしたちの生そのものが、計測可能性に捉われようとしている。

***

 昨年大学でやったワークショップ論の授業で、キャンパスの中でいま存在する自由を探すフィールドワークをした。学生たちは、掲示板に刺さった画鋲を配置して作られた絵を見つけ、古いベンチの裏にこっそり書かれた落書きや、喫煙コーナーに堂々と描かれた落書きを見つけ、そして教員の研究室のドアに貼られたチラシが、その研究室の主の所属学科によって違うということを見つけた(ある学部の人たちは「主張」しており、ある学科の先生は「表現」しており、ある学部の人たちは何も貼らない)。学生たちと話し合い、それぞれ発見したものをめぐってフィクションを書き、ZINEをつくった。学生の書いたフィクションはすべて、フィールドワークから生まれたものなのに、言ってみれば、生成AIが書いたと考えることも可能な文章だった。

 そのZINEができてみんなで対話をしていたときにわたしは大事なことに気づいた。一人ひとりが感想を語っていた時のことだ。終盤で、ある学生が、いかにこの課題が大変で、そしていかにやりがいがあったかを話した。わたしはそれを聞き、まぎれもなく「真正」だと思った。それはその人のフィクションの内容がすばらしかった、というだけではない。彼の語り口と、授業の中で培われたわたし、あるいは他の学生との関係が、そう思わせたのだろう。コロナ禍の後ではめずらしいことになってしまったが、授業のゲストを囲んだ飲み会もやった。そんなふうにして一緒に重ねてきた議論や作業が大きな意味を持っていた。そしてこういうふうにお互いに真正であることを確認し合える関係こそが、今の時代、とても稀少性をもってしまっているのだということに気づいた。であれば、重要なのは誰かのつくりだしたものが真正であるのかそうでないかを確かめることではない。人の創造性自体が、様々なテクノロジーの媒介によってうみだされていくことが前提になってしまった時代に、誰かとともにかりそめに真正さをつくり出し、確かめていくことこそが重要なのだ。

***

 このようなお互いが真正であることを確認していく場を、人類学者のアナ・チンにならって「パッチpatch」と呼んでみよう(チン2019; Tsing et al 2024)。地球上のあらゆる場所に人工物の痕跡に覆われ――たとえばマイクロプラスチックは深海にまでおよび、そこに生きる生物の体内に取り込まれている――社会と自然がもはや分別不可能になった時代において、人間がなした攪乱の先に生まれた、人間以外の存在が作り出し、人間が手に負えなくなった場を、チンはパッチと呼んだ。たとえば、もともと地中海沿岸が原産地だったオカダンゴムシは、明治になって輸入された植物の根と土とともに日本にもたらされ、人びとになじみ深い存在となった。彼らが生息する石の裏や、堆肥場は、オカダンゴムシがつくるパッチである。ペットとして飼われていたタイワンシマリスもその一例だ。飼い主に捨てられたり、逃げ出したりして野生化し、公園の森にコロニーを作る。タイワンシマリスは街路樹を伝わって移動する。このことがケヤキに影響を与える。気候変動による酷暑と、踏み固められた土、そして覆われたアスファルトによって弱ったケヤキは、タイワンシマリスの食害によって弱っていく。それもまた、パッチである。

 雁皮がつくるパッチもある。すでに書いたが、山火事の後、人間が森林再生に動き出すよりもはやく、焼け跡から雁皮が芽を出しているのを発見した。これもまたパッチの一例だ。

 わたしたちの生は、メガテック企業と国民国家の結託によって、お金の動き、日々のつぶやき、政治信条から趣味嗜好に至るまで計測可能なものになっていく。そしてわたしたちの生み出すようなものは、簡単に生成できるようになっている。その結果、人と人との関係すら、常にまがい物であることを疑わなければならない状況にある。

 それでもふとした瞬間に人は出会い、そして思わぬ形で何かを生み出してしまう。生み出した何かによって、わたしたちは気づいていなかった出来事に気づき、まだ知らぬ世界の断面にふれる。あらゆるものを計測可能にしていく流れが運んだ、砂やゴミのように取るに足らないものがかりそめに堆積し、他とは違う景観をつくりだすように。

 わたしたちの生は世界の全体を変えることはできない。ただ、その片隅に計測可能性から逃れていくパッチをつくるだけだ。それでも十分に意味はある。世界にふれることは、世界にある事実を知ること、理解することではない。世界になることなのだ。

2「雁皮と福祉」

 スミさんと出会ったのは、2025年2月、岡山でのことだ。

 前日、わたしは友人の美術作家の紹介で、西宮名塩で雁皮紙を漉く和紙職人を訪ねた。地元の土を入れて漉く名塩雁皮紙も、それを使って生まれるボタニカルアーティストの作品も美しく、そして土に由来する独特の手触りがあり、まさに風土に根ざす作品とはこういうことなのだと思った。どこで採れる雁皮の品質がいいのでしょうかと尋ねると、和紙職人は、「僕はずっと六甲山系のものをつかってきたからそれが一番だとおもう」と言っていた。その後ナシオン創造の森を再訪し、翌朝、岡山に移動した。

 岡山につくと、人類学者のマツムラさんが待ってくれていて、昼ご飯を食べながらその後の調査の打ち合わせをした。岡山は雁皮の主産地の一つである。岡山でも調査に行きたいと相談していたわたしに、マツムラさんは雁皮との出会いについて語った。

 マツムラさんは、前年に岡山市内で開かれた雁皮紙をつかった写真展の展覧会評を書いていた。写真は1970年代から80年代に中国地方で人々の仕事と暮らしを撮影したもので、写真家が拠点にする鳥取市の、和紙産地である青谷で漉かれた、極薄の雁皮紙にプリントした作品だ。それを、岡山市内の地下にある小劇場に展示した。かつてあった人びとの営みは、雁皮特有の薄黄色の紙に写し取られている。一点一点光が当たった写真が、暗闇のなかでゆらゆらとゆれる。Future Nostalgieと名付けられたその展覧会を見た感動とともに、話に聞いていた雁皮と偶然出会ってしまった驚きを、マツムラさんは私に語った[1]

 午後になるとその写真家も合流し、今後の作品制作のために雁皮を調達することがどれくらい可能なのかを話した。 

 今回、岡山にやってきた理由の一つは、マツムラさんが企画したイベントで話題提供することだった。岡山駅から延びる奉還町のアーケードの先にあるラウンジ・カドで、「雁皮と福祉」と題して、マツムラさんとトークをする。タイトルはマツムラさんが付けた。わたしはマツムラさんに、楮や三椏とちがって、人間が簡単には栽培できない雁皮の性質を伝え、「ちぐはぐさ」という言葉で表現した。そして、それは、多様な存在が共に生きる「自治」のヒントになると話した。マツムラさんは、福祉や教育の現場におけるケアのむずかしさ、ままならなさを想起したという。

 見慣れない言葉の組み合わせのタイトルのイベントには、「ラウンジ・カド」が持つ場所の力、マツムラさんの知名度とも相まって、50人近くの人びとが集まった。

 その中のひとりに、スミさんがいた。

3 マムシ獲りの物語から

 この日は特に打ち合わせもなく、スライド投影もなく、みなアドリブでしゃべった。

 わたしは、わたしを雁皮と出会わせてくれたシマオカさんのことから話し始めた。シマオカさんが手刀で風を送り、マムシをひるませたうえで、素手で鎌首を押さえるという話――マムシ獲り名人として地域の人から頼まれてあちこちにマムシを獲りに行くこと。その副産物としてマムシ酒の瓶がたくさん家にあること。そもそもマムシ獲りをシマオカさんに教えたのは、シマオカさんの叔父だったこと。中学校に入学するときに、度胸試しとして教えられたこと。

 そして、そのようにシマオカさんに自分にかかわる逸話として聞かされていた話を、時間が経ってから考えていくと分かったことを語った――小学生の低学年の頃に南海沖地震があり、四万十川にかかっていた橋が崩落したこと。その後、仮に補修されたがあるとき再崩落し、その巻き添えをくらって長男だった兄が大怪我を負ったこと。兄は、母の懸命の看病にもかかわらず亡くなったこと。母は「気狂い」のようになってしまい、次男であるシマオカさんは父に言われて毎日母について回っていたということ。母について、田んぼや畑、山の仕事を覚えたこと。母を見守り、家の仕事を手伝いしながら、勉強にも励んだシマオカさんが、小学校を卒業するときに村長に模範少年として表彰され、記念品として文机をもらったこと。叔父からマムシ獲りを教わったのは、ちょうどその頃だったということ。

 シマオカさんのマムシ獲りをめぐる話は、その豪快な人柄を表すものであるとともに、豪快であることを引き受けて生きていかなければならなかった、シマオカさんの生の孤独さを浮かび上がらせる話としても聴かなければならない。

 そして、少年時代のシマオカさんが山仕事としてヒノキやスギの苗を植え、世話をする傍らで採集したのが雁皮だった。シマオカさんは雁皮の皮を剥ぎ、種の販売の傍らで、タヌキの皮やマタタビを集める商人に売り、小遣いを稼いだ……。

 終わった後懇親会になった。多くの人が集まったため、スペースを作るために外に運び出されていたテーブルが店内に戻され、料理が出てきた。地元で作られたクラフトビールも持ち込まれた。テーブルに座っていたわたしは、周りにいたいろいろな人と話をした。そのなかに、わたしよりも少し年上に見える、眼鏡をかけた女性が話しかけてきた。それがスミさんだった。イベントが始まっているときから吞み始めていたスミさんは、彼女と一緒に読書会をやっている仲間たちと、マムシを素手で獲る人に会いたいと話した。そのあともいろいろな人と話したため、彼女と特に話し込んだわけではない。

 翌日、岡山県東部の雁皮の自生地を回る車の中で、マツムラさんから、スミさんが、岡山市内から牛窓、長島まで様々な地域で様々な仕事をしていることを教えてもらった。

***

 岡山での二日間の調査が終わり、自宅に戻ると、スミさんから連絡があり、挨拶程度のやりとりをした。

 その一方で、作品に雁皮の紙を使いたいという作家から連絡がはいっていた。雁皮の調達をわたしに依頼してきたのだ。わたしは朝霧森林倶楽部のハマダさんに連絡をとった。ハマダさんは、「朝霧森林倶楽部で栽培している雁皮では足りない。自生していて採集ができる場所があるので、そちらのものを採集するか」と前向きに検討を始めてくれた。採集した後の雁皮の皮はぎに人手がいる。それなら、スミさんを誘おうかとマツムラさんとともに考えた。スミさんに連絡をとると、訪問を前向きに考えてくれた。

 ハマダさんと訪問の日程を決め、スミさんとのやり取りを始めていると、雁皮調達の依頼をくれた作家から、今回は調整がつかず、雁皮を使った作品はつくらないという連絡が入った。ハマダさんに謝罪の連絡をすると、ハマダさんは淡々と受け止め、さらにありがたいことに「四万十に来るときは、せっかくだから新しく開拓した畑に雁皮の苗の植え付けをしよう」と提案してくれた。スミさんに「雁皮の皮はぎ作業はなくなったが、苗の植え付けをしに四万十に行く」と伝えると、日帰りで自分も行くと返事があった。

***

 その時に雁皮を植えにいったのが、連載第2回に書いた山の尾根にある圃場だ。スミさんが到着する頃には植え付けは終わってしまい、お昼ご飯を食べる店で合流することになった。スミさんは年季の入った軽バンでやってきた。店の傍らに四万十川が流れており、対岸には御成婚の森がある。カツカレーを食べながら、スミさんはハンセン病療養施設の長島愛生園に通っていると教えてくれた。園の中にあるカフェ「さざなみハウス」の書生と称して、手伝いをしているという。

 食後、対岸に渡って御成婚の森の雁皮の栽培圃場を見て、雁皮が自生する山を登った。登るのが大変だからやめておきなとハマダさんに言われたが、スミさんは山の上にある種を採集する雁皮の大木を見に登っていった。

 そうやって一日を過ごしながら、スミさんは長島愛生園の人びとが個人として残したいと思っていること、本当に残したいことを残すため、四万十の雁皮をもらって紙に漉けないかと考えていると語った。2月の岡山のイベントで、雁皮の紙は三千年残るとも言われていると語ったことがひっかかったらしい。わたしは瀬戸内の島から雁皮を採集したという話を読んだことがあり、長島に雁皮が生えているのではないかと伝えた。

 予期せぬ応答だった、と夏に再会した時にスミさんは語った。

*連載第6回の続編を含めた本稿の完成版を、岡山県の長島愛生園内の喫茶さざなみハウスなどにて今後頒布する予定です。詳細が決まりましたら、海鳴月報のX(@nankyokko)にてお知らせいたします。

[1] マツムラさんの展覧会評は以下を参照。ノスタルジーが切り開く未来~池本喜己写真展Future Nostalgie(https://note.com/okayama_minamata/n/nfd5d49cd32ad

参考文献

大島義男1932「建築当時の追想」、長島愛生園慰安会編『長島開拓』24-38、長島愛生園慰安会

アナ・チン2019『マツタケ――不確定な時代を生きる術』(赤嶺淳訳)みすず書房


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