本連載は、これまで主として大規模なテクノロジーを対象として発展してきた技術哲学に対して、日常的な暮らしのなかで発揮される技術に注目することで、「小さな技術論」を提示しようとするものである。具体的に挙げられるのは、料理や掃除といった基本的には何らかの道具を利用して行われる営みである。本連載では、小さな技術を道具の使用という観点から論じてみたい。
道具とは何だろうか。それはさしあたり、特定の目的を達成するための手段として捉えることができる。こう書くと、あたかも一つの道具は、それが達成すべき一つの目的と対応しているかのように思えるかもしれない。これを前提にすると、多様な目的に応じて、多様な手段が存在しうることになってしまう。しかし、道具は、目的ごとに独立しているわけではなく、まとまりなく離散しているわけでもない。それらは相互に連関し、使いやすいように配置されているのだ。
たとえば台所に存在する道具は相互に極めて密接なネットワークを形成している。一般的な家庭では、シンクの上に蛇口があり、その横に食器用洗剤とスポンジが置いてある。洗い終わった食器を入れておく容器が、シンクの横に設置してあったりする。こうした配置は恣意的に決まっているわけではない。食器を洗うという動作を、可能な限り少ない工程で、最小限の動きによって達成するための配置だ。食器用洗剤を電子レンジの裏に置き、洗い終わった食器を入れておく容器をトイレに置いている人はいないだろう。
日常的な生活における道具のあり方を省みるとき、そこに際立っているのは、道具の配置の必然性である。今回は、その基本的な性格を分析するために、マルティン・ハイデガーの議論を参照してみよう。ここで検討される諸概念は、本連載全体をつらぬく議論の基礎になるに違いない。
「世界-内-存在」としての人間
ハイデガーは主著『存在と時間』のなかで、存在の意味への問いに取り組むことを主題とし、この目的を達成するために、常に存在を了解している存在、つまり人間の存在を明らかにすることを、さしあたりの目標とした。その際、ハイデガーは人間を世界から切断された理論的対象として捉えるのではなく、むしろ人間がありのままの世界でどのように生きているのか、という観点から、人間の存在の構造を明らかにしようとした。だからこそ、日常が彼の議論において重要なテーマになる。
それでは、日常における人間の存在を条件づけている構造とは何だろうか。ハイデガーによれば、その一つは世界へと開かれていることに他ならない。このような観点から、ハイデガーは人間を「世界-内-存在」とも呼ぶ。
世界-内-存在は、そのうちに様々な構造を含んでいて、人間もまた常にある状況のなかで世界の内に存在している、という考え方である。ここでいう「なかで」とは、決して物理的な空間内ではない。人間は世界に存在するものと関わり合っていて、そうしたものと交渉しながら存在している、とハイデガーは言っているのだ。
日常的な世界において人間が関わっているものとは何か。ハイデガーはその典型として道具を挙げる。人間は、この世界に生きている限り、常に何かの道具と関わっている。たとえば皿を洗っているときにはスポンジを使っているし、物を書いているときにはペンを使っている。一見すると何も用いていないように見える場面でさえ、道具との関わりは存在する。たとえば座っている時には椅子と関わっているし、あなたが室内にいるならば建物と関わっている。服を着ていれば、当然服とも関わっている。
道具は、単体で存在するのではなく、それぞれが相互に連関している。一つのネットワークを形成している。道具は、それが使われるべき場所に配置されているのであり、どこにどんなものがあるのかが、おおよそ決まっている。そのように配置された場所こそが、人間が生きる日常的な世界に他ならないのだ。ハイデガーは次のように述べる。
道具には「近さ」、言い換えるならアクセスのしやすい場所がある。道具がその本領を発揮できるのは、そうした場所に道具が収まっているときである。道具は原則的に使いやすいようにいつもの場所に片づけておかなければならない。「散在」していたら、その機能を発揮できなくなる。
道具の近さはその方向を切り開かれているのであって、そうした近さが意味するのは、その道具が、どこかに事物的に存在しつつ、おのれの位置を空間の内にもっているというだけのだけのことではなく、道具であるからには本質上その道具が、設置され保管されており、装置されており、整頓されているということなのである。道具はおのれの場所(傍点2点)をもっているか、さもなければ道具は「周囲に散在している」かであるのだが、このことは、任意の空間的位置で純粋に事物的に出来することとは原則的に区別されるべきである。[1]
道具には「近さ」、言い換えるならアクセスのしやすい場所がある。道具がその本領を発揮できるのは、そうした場所に道具が収まっているときである。道具は原則的に使いやすいようにいつもの場所に片づけておかなければならない。「散在」していたら、その機能を発揮できなくなる。
道具の場所と場所がおりなすネットワーク
道具の場所性は、道具そのものによって規定されるのではなく、むしろ、使う人間によって規定されている。場所の違いが顕著に現れるのはキッチンだろう。普段スーパーで買ってきた惣菜を食べている人と、毎日料理をしている人のキッチンは、備え付けられているものも、道具の配置も、まったく違う。また、料理をしている人であっても、和食を主とする人と、洋食を主とする人とでは、やはり違った配置になるだろう。醤油とオリーブオイルのどちらがもっとも近くに配置されているのか、フライパンと鍋のどちらが火力の強いコンロに置かれているのか、ということは、その道具を使用する人間の食習慣による。ハイデガーはこうした場所性の総体を、人間自身の空間性として捉える。
道具には固有の場所がある。それによって、道具があるべき場所と場所を線でつないだネットワーク全体が、浮かび上がってくることになる。
場所は、そのつど、なんらかの道具がそこに属するのに適している特定の「あそこ」とか「そこ」とかなのである。そのつどそこに属するのに適しているというこの性格は、道具的存在者の道具性格に対応している、言いかえれば、道具的存在者が一つの道具全体へと適所性にかなって帰属するという性格に対応している。だが、或る道具全体がしめるべき場所をえてそこに属するのに適しているということの根底には、このことの可能性の条件として、帰属すべき場所一般がひそんでいるのであって、この帰属すべき場所一般のうちへと入りこむことによって一つの道具連関には場所全体性が指令されるのである。道具としてそこに属するのに適しうるということの帰属すべき場所は、配慮的に気遣いつつある交渉において配視的に眼差しのうちにあらかじめ保たれているのだが、こうし た帰属すべき場所をわれわれは方域と名づける。[2]
ハイデガーによれば、方域とは道具が帰属するべき場所の総体である。ここで注意するべきことは、方域は物理学において前提とされるような等質的な幾何学的な空間ではない、ということだ。方域は、それを構成する道具によって、様々な仕方で意味づけられている。それによって空間はそれぞれ違った仕方で体験される。たとえば、同じ広さであっても、そこがリビングであるが、キッチンであるかによって、窮屈さは変わってくる。リビングとしては窮屈でもキッチンとしては広々していると感じることがあるだろう。その違いをもたらしているのは、そこで何をするのか、どんな風に道具を使用するのか、ということに他ならないのだ。
このように構成されている方域の存在を、私たちは普段は意識していない。たとえば、慣れ親しんだキッチンで皿を洗っているとき、いちいちどこに何があるのかを考えない。何も意識しなくても、自然に手が洗剤に伸び、きちんと目視しなくても、洗い終わった皿を然るべき場所に移すことができる。
一方、こうした方域が意識されるのは、道具を円滑に使用できなくなったときだ。ハイデガーは次のように述べる。
そのときどきの方域の先行的な道具的存在性は、道具的存在者の存在がもっているよりもさらにいっそう根源的な意味において目立たない親密性という性格をもっている。そのときどきの方域がそれ自身看取できるものになるのは、道具的存在者が配視的に暴露されるさいに、しかも配慮的な気遣いの欠損的な諸様態において、目立つという仕方においてのみである。或るものがそのもののあるべき場所で見当たらないとき、そのときはじめて、その場所の方位が表立ってそのものとして近づきうるものになるということは、しばしばあることである。[3]
たとえば皿を洗っていて洗剤を手に取ろうとしたら、そこに何もなかったとする。そのときになって初めて、私たちは「ここには洗剤があるはずなのに」ということを意識する。洗剤が帰属するべき場所が意識化されるのだ。
ここに道具をめぐるハイデガーの議論の特徴がある。人間は世界-内-存在である。しかし、自分がどんな世界に生きているのかを、いつも反省的に意識しているわけではない。言い換えるなら、世界を生きるのに、その世界を意識することは不要なのだ。このような観点から、ハイデガーは、物理学的な空間概念とは異なる空間概念を基礎づけようとした。
際限なく広がる方域
ところで、道具が帰属する場所の総体が方域であるとしたら、その方域はいったいどこまで広がっているのだろうか。たとえばキッチンはリビングへと広がり、そこからトイレや浴室へと広がっていく。ではその広がりはどこかで限界に直面するのだろうか。
興味深いことに、ハイデガーはこうした方域を、家の外にまで拡張する。
不断に道具的に存在するものは、配視的な世界内存在が初めからそれを斟酌しているのだが、だからこそおのれの場所をもっているのである。そうした存在者の道具的存在性が占めるどこかの場所は、配慮的な気遣いにとって計算のうちに入れられており、残りの道具的存在者をめがけて定位づけられている。このように、その光と熱が日常的な使用に供されている太陽は、太陽が与えるものの利用可能性の変化のほうから、日の出、真昼、日没、真夜中というふうに、おのれの配視的に暴露された際立った場所をもっている。〔…〕東西南北というこうした天体の方域は、まだ地理学的意味をすらおびる必要はなんらないのだが、もろもろの場所でもって占められうる諸方域のあらゆる特殊な形成に対しては、先行的な帰属すべき場所をまえもって与えている。家屋は、陽の当たる側とか風雨の当たる側とかをもっている。それぞれの側に応じて「空間」の割当が定位づけられており、また、これらの空間の内部では「調度」がこれまたそれぞれの道具性格に応じて定位づけられている。[4]
ハイデガーによれば、家の内装は、その家がどんな環境に置かれているかによって、変わってくる。たとえば、どこから日が当たるのか、どこから雨が当たるのか、ということを計算に入れて、方域は組織される。当然、たとえばその家が森の中にあるのか、海岸にあるのか、あるいは豪雪地帯にあるのか、離島にあるのかによっても、内装に求められる道具の配置は変わってくるだろう。したがって、家の中の道具は、原則的に家の外の環境へと広がっていく。当然のことながら、その広がりには際限がない。このようにどこまでも拡大する方域の全体こそが、ハイデガーのいう世界なのである。
しかしそうであるとすると、家は特別な場所ではなくなってしまう。実際、『存在と時間』において、家屋をめぐる議論はほとんど存在しない。家の中と外は、私たちにとってまったく違った場所であるかのように感じられる。家に帰れば、自分が帰属するべき場所に戻ってきた、という安心を得ることができる。家の外に出れば、そこには世間の目があり、緊張を強いられる。家の内外には、境界が存在するように思える。そうであるにもかかわらず、ハイデガーの議論は、そうした境界を抹消している。
そもそも、家とは何なのだろうか。次回は、その問題をより掘り下げて考えてみよう。
注
[1] ハイデガー『存在と時間 1』原佑・渡邊二郎訳、中公クラシックス、二〇〇三年、二六六頁。
[2] 前掲書、二六六—二六七頁。
[3] 前掲書、二六九―二七〇頁。
[4] 前掲書、二六八—二六九頁。