第1回 台所とタイプライター

 技術の哲学と呼ばれる領域がある。それが主題的に論じられるようになったのは二〇世紀以降である。この意味で、技術の哲学は現代的なテーマである。

 伝統的な哲学の歴史において、技術は人間の知的営為のなかで、低い地位に置かれていた。たとえばそれは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』における知の階層にも表れている。彼はそこで、観想(テオーリア)を最上位に置き、実践(プラクシス)その下位に置いた。そして、目的を外在させる技術(テクネー)は、目的を内在させる狭義の政治的な行為よりも下位に置かれた。つまり技術は、知の階層のなかで最低の位置づけを与えられているのだ。その一方で、近代以降の自然科学の隆盛と、産業革命以降の技術の飛躍的な進歩は、人間の知的営為における技術の地位を相対的に向上させた。それがはっきりと顕在化したのが二〇世紀だった。工場による労働の大規模な機械化、高度な交通技術による人々の移動の活発化、そして戦争における圧倒的な破壊力を持つ兵器の登場は、私たちの社会が技術によって決定的に条件づけられていることを自覚させた。だからこそ、二〇世紀の哲学者たちは、そうした技術と人間がどのように関わりうるのかを、考察してきたのである。そしてその蓄積が、技術の哲学という問題系を形成している。

 そうであるがゆえに、そこで論じられる技術は、基本的には大規模なテクノロジーだった。あるいは少なくとも、大規模なテクノロジーへと至ることを運命づけられたものとしての、技術だった。そうしたテクノロジーは、人々の集団的な実践によって維持され、伝統的な社会の枠組みを侵犯し、生活世界──すなわち、日常的に経験される世界──を植民地化するものであるかのように、捉えられてきた。言い換えるなら、テクノロジーは生活世界の対局に、すなわち暮らしの外側・・・・・にあるものとして捉えられていたのだ。

 そうした技術論が重要であることは疑いえない。しかしそれは、暮らしの内側に存在する技術への視点を、覆い隠すようにも作用する。その結果として、テクノロジーを批判するならば、技術を可能な限り行使しない生活、すなわち原始的な生活へと回帰する、という誤った発想へと帰着することになる。

 しかし──改めて言うまでもなく──暮らしのなかにも技術はある。それは、必ずしも原始的ではないし、またテクノロジーへと最適化するものでもない。しかし、テクノロジーとまったく関与しないわけではないし、同時に、原始的な自然との交流から切り離されているわけでもない。暮らしの技術はその狭間にある。そうした技術の行使が人間の知的営為のなかでどのように位置づけられるのか、私たちの日常生活をどのように意味づけているのか、ということは、少なくとも技術の哲学の枠組みのなかでは、十分に検討されてこなかったのではないか。

 本連載では、暮らしの外側にある大きな技術、すなわちテクノロジーの分析を主題としてきた従来の技術論を、「大きな技術論」と呼ぶ。それに対して、暮らしの内部にある技術、すなわち日々の暮らしの技巧を主題とする技術論を、「小さな技術論」と呼ぶ。

 これまで小さな技術論は軽視されてきた。この事態は大きな技術論にとっても損害である。なぜなら、テクノロジーの急激な進歩を批判するためには、テクノロジーとは別種の技術、私たちがそこへと立ち返っていくことのできる技術のあり方を確保しなければ、大きな技術論は原始的な生活への回帰という、極端な主張へと陥ってしまうからだ。

 こうした観点から、様々な論点を概観し、私たちの暮らしがいかなる技巧によって成り立っているのかを明らかにするのが、本連載の主題である。

「仕事」と「労働」

 小さな技術論とは何か。その領域を見定めるために、政治思想家のハンナ・アーレントを参照しよう。主著『人間の条件』において、彼女は人間が世界に対して働きかける営みを活動的生活として捉え、そのうちに行為(action)、仕事(work)、労働(labor)という三つの階層を見て取った。同書は、この三つの階層がどのように歴史的に変動してきたのかを解明することを主題とする。このうち、技術の営みは、労働と活動に帰属する。

 労働は、ごく大まかに言えば、人間の生命を維持するための活動である。この意味で労働は自然の必然性に支配されている。具体的には、ものを食べること、あるいは食べ物を買う賃金を得るために、人に雇われて工場などで単純な賃労働をすることなどが挙げられる。労働の特徴はものを消費するという点にある。食べ物にせよ、金銭にせよ、労働によって得られたものは必ずなくなってしまう。だから新しいものを絶えず獲得し続ける必要がある。したがって労働は同じことを何度もすること、つまり循環的な反復を余儀なくされる。アーレントはそれを、自然の循環と重ね合わせて捉えている。

 それに対して仕事は、人工物を制作する活動である。人間は剥き出しの自然のなかで生きることはできないため、常に、自分が生きる環境を人工物によって作り直す必要がある。たとえば街を建築することはその最たる例だ。アーレントは、このように人工的に作り出された環境を、自然から区別して、世界と呼ぶ。ただし、労働の場合とは異なり、仕事は必ずしも生命に役立つことを目的とはしていない。たとえば世界には、家のように生活に必要なものもあれば、芸術作品のように生活には直結しないものもある。しかし、どんな芸術作品が存在するのか、ということは、その世界がどんな場所であるのかを考える上で、無視することができない要素である。 

 仕事の特徴は、作り出されたものが、手入れさえすれば長期間にわたって使用され続けるということ、つまり消費されないということである。場合によっては、個人の一生を超えて存続することができる。そうした人工物によって、私たちの生きる世界は形作られる。それは、儚い一生を送ることになる人間に対して、一種の慰めを与える。同時に、私たちは同じ世界を他者と共有することによって、この世界にリアリティを感じるのだ。

 このとき、労働と仕事との間で、想定されている技術のあり方は明らかに異なっている。たとえば労働に帰属する技術とは、生命の維持に必要であり、「私」がただちに消費するものを作る技術だろう。たとえば料理はその典型であるに違いない。それに対して仕事に属する技術とは、街や芸術作品など、長期間にわたって存続しうる事物を作る営みである。いまここで仮に、前者を労働の技術、後者を仕事の技術と名づけてみよう。

 アーレントは労働と仕事のうち、どちらを重視しているのだろうか。それは明らかに仕事である。仕事は世界のリアリティと結びついている。言い換えるなら、労働をしているだけでは、人間は世界のリアリティを感じられない、ということだ。実際、彼女はそうした事態が、現代社会の大衆化の背景にあると洞察した。

 暮らしの技巧は、彼女の考える活動的生活のどこに位置づけられるのだろう。恐らくそれは労働だろう。彼女にとって、労働は仕事よりも──少なくも古代ギリシャの基準にしたがって考えるなら──低い地位にあるものだった。なぜなら労働において人間は生命の必然性に支配されているのであり、自由を発揮することができず、自然に強制された状態に置かれるからだ。無くなってしまうものをつくる労働は、奴隷が為すべき活動であり、街や芸術作品といった人工物を作る活動とは、根本的に異なったものである。彼女は、技術のあり方として、明らかに仕事に高い価値を置いている。対して、暮らしに関わる技術は、それに劣る評価しか与えられていないのである。

 『人間の条件』を邦訳したことで知られる志水速男は、アーレントの労働と仕事の概念的な関係について、次のような興味深い証言を残している。

たとえば現代人にとって「労働」と「仕事」はほとんど同義語である。アレントにいわせれば、それは現代において「仕事」が「労働」の形式をとっているからにほかならないからである。しかしこの二つの活動力が生みだす「生産物」に注目すればその差は明らかである。すなわち「労働」が生み出す「生産物」は耐久性のない消費物であり、「仕事」が生みだす「生産物」は人間の消費過程を超え、それにいわば抵抗して存続するように作られた物である。余談になるが、アレントに会ったとき私はこの「労働」と「仕事」を区別する観念をどこで得たのか彼女に訊いたことがある。彼女は「台所とタイプライター」でと答えた! つまり、オムレツを作るのは「労働」であり、タイプライターで作品を書くのは「仕事」なのである。[1]

 志水の質問が巧妙であるのは、彼が労働と仕事の区別がどこで・・・生まれたのか、つまりそれらがどんな場で着想されたのかを問うている点だ。

 労働が営まれる典型的な場は台所である。そこでは料理や洗い物が行われる。何か新しいものを生み出すわけではなく、家のなかで消費される。そこから生じるのは日々同じことの反復である。労働は、生命の必然性にしたがって行われる。つまり、あらゆる生命に一様であり、没個性的である。一方、仕事が営まれる場はタイプライターである。その機構のなかで、紙にインクが印刷され、新しい文章が生み出されていく。文章は原稿となり、家の外へ人々の手へと出回っていく。一つ一つの原稿は、「私」の業績の蓄積となる。それは反復的ではなく、前進的であり、「私」自身の作者像を形成するという意味で、個性的である。

 しかし、台所で生まれる活動は、原稿を書くこととは反対に、反復的で、強制的で、没個性的なのだろうか。筆者にはそうは思えない。

 言うまでもないが、台所で作られる料理は、日々同じ味ではない。オムレツを作るのであったとしても、ある日は卵に多めに牛乳を混ぜたり、ある日はひき肉を混ぜたりする。固く焼くこともあれば、中を半熟にして焼くこともある。仮に、毎日同じレシピでオムレツを作るのだとしても、毎回まったく同じ形に完璧に成形することはできないだろう。ここに、人間の作る料理と工場で生産されるものとの大きな違いがある。人間には毎日同じものを作ることができないのであって、反復不可能であるということが、料理の条件である。[2]

 料理は強制的でもない。もちろん、生命を維持するために何かを食べなければならない、ということは、料理の条件である。しかし、誰にも強いられることなく、主体性を発揮して料理することもできる。たとえレシピ通りに作っている場合であっても、料理には常に創意工夫を発揮する余地があり、即興や実験が行われうる。カップラーメンを作ることにさえ、あるいは冷凍食品を解凍することにさえ、自分なりのアレンジが可能である。

 料理は没個性的でもない。まったく同じレシピで料理をしても、どんな台所で、誰が料理するかによって異なったものになる。そこに現れるのは、単なる料理のテクニックではなく、その料理を作りだした人間の身体と、その身体が状況づけられている台所の独自性なのだ。

 このように考えていけば、私たちは暮らしのための技術を、アーレントとは別様に理解することができるだろう。つまり、創造的で、自由で、個性的な営みとして、暮らしのなかの技術を捉えることも可能なのだ。

 もっともこのことは、あらゆる労働を美化することを意味しない。労働のなかには、まさにアーレントが指摘するように、人間に対して奴隷的な生を強いるものがあるだろう。台所における料理もまた、それが特定の家族の成員に重い負担として押し付けられるなら、生活の質を低下させる苦役に他ならないだろう。そうした労働の最中で発揮される技術を、創造的で自由で個性的な営みとして捉えることは不可能である。

 アーレントは現代社会が労働を美化していることを批判した。本連載が試みるのは、労働そのものの美化ではなく、彼女が労働として一元的に捉えるもののなかに、技術としての暮らしの技巧を再発見していくことなのだ──ここでは、その方向性を示唆するだけに、留めておくことにしよう。

居心地のよさを肯定する

 これから、こうした小さな技術論の問題圏を構成すると考えられる、様々な論点を取り上げていく。それによって、「私」が暮らしのなかでどのように技術を行使しているのかを、微細に検討していく。おそらくそれは、生産性や効率性に重きを置くテクノロジーとはまったく異なる価値を中心にして成立している物事を語ることになるだろう。一言で表現するならば、居心地のよさとでも呼ぶべき気分を伴う技術だ。

 居心地のよさを求める技術は、生産性や効率性と両立しないわけではない。暮らしの技巧は家電製品と両立する。ただし、生産性や効率性を優先することで居心地のよさは犠牲にならない。これが前提である。この条件にそぐわないなら、むしろ暮らしの技巧を放棄したものとして、批判的に捉えられるだろう。

 最後に、本連載の動機を述べておきたい。大きな技術論の多くは、テクノロジーの破壊的な影響を批判する視点で、どちらかといえば技術を危険視し、そのネガティブな面を強調してきた。これに対して私は大きな技術論の達成を蔑ろにすることなく、テクノロジーへの健全な疑念を維持しながら、技術を肯定する視座を示したい。

小さな技術論は、新しいテクノロジーの発明を呼び起こすこともなければ、イノベーションによる社会課題の解決を促すこともないかも知れない。けれども、少なくとも私たちの暮らしを肯定する思想にはなりえるだろう。本連載は、それを模索するための旅路である。


[1] ハンナ・アレント『人間の条件』志水速男訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、五三五頁。

[2] もちろん、工場生産物だって、厳密に検証すれば一つ一つ形が異なっているだろう。しかし、それでも手作りの料理と工場生産は異なる。前者は一つ一つ形が異なっていても構わないが、後者は、たとえそれが実現不可能であったとしても、すべてが同じ形であることを目指している、という点においてである。

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