絡まり合い
「絡まり合いentanglement」という言葉は魅惑的だ。わたしたちの生が、孤独でないこと、しかしほかの何者かと一体化しているわけではないこと、その安らぎと切なさをわたしは感じる。
これは、雁皮という植物をめぐる「物語」だ。その皮を剥がされ、煮られ、塵が取り除かれ、叩かれた先に、ノリとともに漉かれて繊維が絡まり合い、紙となる。幾重にも絡まり合った薄くて細い繊維は、にじみを生まず、繊細な表現を可能にする。17世紀オランダで活躍したレンブラントは東インド会社がもたらした日本の雁皮の紙を好んで使い、多くの銅版画を残した。雁皮をたどる旅の中で私の出会った書をたしなむ人は、「雁皮は絹のように滑らかで光沢があり、筆運びも気持ちいい」と語った。雁皮の繊維と繊維は稠密に絡まり合うが、一体化しているわけではない。そこに世界の新たな断面を開く。
オーストラリアの環境哲学者のトム・ヴァン・ドゥーレンは、「絡まり合い」という言葉で「絶滅」を捉えなおす。多くの場合、絶滅は種の最後の個体が死ぬその習慣として捉えられる。たとえば、野生のニホンオオカミの最後の個体がどうやら死んでしまった瞬間、保護されていた野生のトキの最後の個体が死んでしまった瞬間、その種は絶滅するといったように。それに対して、ヴァン・ドゥーレンは、そもそも種とは生命体と生のかたちが作り上げてきた絡まり合った関係だと考える。リュコウバトの最後の個体がシンシナティの動物園で死んだ瞬間は、何億匹にもなった群れが、太陽を覆い隠して飛翔していく、リュコウバトをリュコウバトたらしめていた固有の生の様式が失われていくながながとした過程のなかの出来事なのだ。
種というものが、他者と「共に何ものかになっていくこと(co-becoming)」の豊かなパターンのなかで、無数の世代が重ねてきた系統として理解されるとき、私たちは、この世界からの種の退場を、複雑かつ長期的なかたちで感受するほかない。(ヴァン・ドゥーレン2023:30)
ヴァン・ドゥーレンはそうやって感受した絶滅の縁にある生き物たちの物語をいきいきと語ることができるはずだと信じている。死者や死にゆく者たちは、単なる一つの生命体として死を迎えるのではない。同種の他の個体、異種の他の個体、海や風や大地、岩石といった環境、そして異種がつくりだしてしまった物体――たとえばヒトが大量生産、廃棄した末に生まれたマイクロプラスチック――と絡まりながら生のかたちをつくりだしていく。
リュコウバトやアホウドリ、ハゲワシだけではない、ヒトもまた絶滅の縁にあると考えたときに、その絶滅の縁にある生のかたちはどのようにいきいきと描けるのだろうか。過去最高の平均気温偏差を更新した2023年だけでなく、それと同様の猛暑に襲われた2024年の夏を過ごしながら(そしてそれが、わたしやわたしの周りで農作業にかかわる人たちにとっても大きな影響を与えている)、ただ屋外での運動をひかえること、クーラーをためらいなく使うことばかりがその対策として語られる中、むしろヒトが絶滅の縁にあると考え、その固有の生の様式を編み直すための生き生きとした語りを紡ぎ出す必要があるのではないか、とわたしは考えていた。
その物語として、雁皮とヒトという、ともに絶滅の縁にある、それぞれの生の様式を描きたい。時に絡まり合い、時に立場を組み替えながら、編み直されていく様を描きたい。
宇部からの手紙
山口の宇部で暮らすタカタさんから、「身近に雁皮をとっていたじいちゃんがいました!」というメッセージが届いたのは、2023年の12月のことだ。メッセージに添えられた動画を見ると、赤いチェック柄のシャツを着た男性が、同じように真っ赤な獣の肉をナイフで解体しながら、タカタさんに問われるまま、少年の頃にやっていた雁皮の採集について語っていた。背景には、タカタさんの活動する楠クリーン村の風景が見えた。男性は「雁皮をとるなら砂地のほうじぇねーとだめ」と語りながら、獣の肉をどんどんと解体していく。
楠クリーン村は、若者たちが戦後開拓された後に放棄されたお茶畑をもう一度茶畑として復活させ、農的な暮らしをしている農園である。タカタさんはそこで家族をつくり、仲間たちと農的な暮らしをし続けている。
タカタさんとメッセージのやりとりをしながら、動画の男性がたっさんという名前であること、70代半ばであること、罠猟で捕まえたイノシシの捌き方や、シイタケ栽培など山にかかわる仕事を教えてくれる師匠であることを知った。動画でたっさんが捌いていたのも、イノシシだった。
タカタさんは、たっさんが捌いたイノシシ肉を、数日後に私の活動する見沼田んぼ福祉農園のイベントに合わせて送ってくれた。それを焼肉にした。みな、うまいうまいと言って食べた。残った肉は、わたしの家でカレーにして食べた。これもまたうまかった。焼肉にしても、カレーにしても、生臭さはまったくなかった。秘訣はたっさんの血抜きの技にあるのだと、タカタさんに教えられた。
わたしは一頭のイノシシが死に解体される映像とともに、たっさんと雁皮をめぐる物語に出会った。たっさんが捌いた肉を、わたしは家族や農園の仲間と一緒に食べた。肉はわたしの身体の一部になった。そして、その身体をもったわたしが、たっさんのもとを訪問することになる。
イノシシ狩りの達人
2024年の2月17日に山口県宇部市にある楠クリーン村に出かけた。
タカタさんたちは、学生耕作隊というNPOをつくり、1960年代に開拓された後、耕作放棄されたお茶畑を復活させ、ブルーベリーを植え、鶏を飼っている。お茶やジャムなどの加工品もつくっている。お茶畑のある台地から下った平地では、無農薬で米も育てている。それらの生産物をNPOの会員にトラストとして届けるとともに、地元での直販や、関係する団体の流通網に乗せて売る。タカタさんはわたしが教えている大学の元学生だ。学生時代から楠クリーン村にインターンとして通っており、卒業してそのまま就職した。現在はNPOの代表で、一緒に働く仲間だったイマイ君と結婚し、ヒサシ君が生まれた。タカタさんが楠クリーン村で暮らし始めて、2024年で10年になる。
わたしが楠クリーン村に訪れるのはこれで4回目だ。今回は、山に生えている雁皮を探すために、この地にやってきた。
日中、山口市内で資料調査をした後、夕方に鉄道に乗り、タカタさんが指定した駅で降りた。タカタさんと息子のヒサシ君と落ち合い、彼女の車で楠クリーン村に向かった。2歳のヒサシ君はわたしと一緒に後部座席に座り、何事かをずっと話していた。楠クリーン村に向かう途中、わたしたちはたっさんの家に寄った。
たっさんとの出会いを、タカタさんは次のように振り返った。「楠の入り口で警察と喧嘩してるおじいさんがいるーと遠目で関わらないようにしていたのですが、おれは間違ったことは言わんぞ! 真面目が服来て歩いてるような男だ! と何回も言うので、なんか面白い人だなーと思って話すようになりました。そうしたら山のことを色々と知っているすごい人ということがわかり、色々教えてもらうようになりました」
わたしの前に現れたたっさんは、髪の毛は白くなっているが、引き締まった体の人だった。わたしは人見知りだからとたっさんは語ったが、簡単に挨拶をすませるとその言葉に反して饒舌に語った。しゃべりながら、よく笑った。
たっさんが楠クリーン村の若者たちと出会ったのは、たっさんのイノシシ狩り仲間のシノハラさんの紹介があったからである。シノハラさんは地元の農家として、耕作放棄地を復活させようと悪戦苦闘する楠クリーン村の若者たちを積極的に応援していた。
たっさんは自分よりも年上のシノハラさんにイノシシの罠狩りを教えていた。イノシシ狩りをしている人びとは、自分の狩場を荒らされるのを嫌がり、他の人に詳細を教えることはない。しかし、たっさんは、シノハラさんに気前よくやり方を教えた。最初はまったくかからなかったイノシシがだんだんとれるようになった。
そんな関係を続けていた二人だったが、ある時、シノハラさんは、自分は年を取って面倒を見られなくなるからと、楠クリーン村の若者たちの支援を、たっさんに託すことを決めた。たっさんは、元開拓地で耕作する若者たちがいるのは知っていたけれど、実際に会ったことはなかった。だが、やがて楠クリーン村のスタッフや各地からやってきたインターンの若者たちとわいわいとすごし、山の仕事や、イノシシの罠狩りやとどめの刺し方、そして血抜きや解体の仕方などを教えるようになった。タカタさんたちの無農薬栽培の米づくりについても、水路掃除だけはしっかりやるようにアドバイスに余念がなかった。
***
たっさんの家にお邪魔したあと、わたしたちの車はたっさんも乗せ、楠クリーン村へと向かう。その日、楠クリーン村の呼びかけで田んぼの側溝掃除のために集まったボランティアの人たちが集まっていた。その流れで、ボランティアに来ていた二人も誘って、タカタさんとイマイ君夫婦の家でおでんを食べることになった。
酒を飲みながら、たっさんは身の上話を始めた。戦後まもなくの生まれだということ、長男ではないが、山口市徳地にある実家の田畑を継いでいること、高校を卒業し、製鉄会社で勤めてから、レジスターの外商をやっていたこと……。
わたしは翌日に行く山について話を伺った。実家の近くにあるその山に、たっさんはもう何十年も入っていない。この日下見をしたところ、鎌、鋸で草を刈りながら歩く必要があるという。たっさんが中学2年生の時にその地域に引っ越した頃は山でマツタケもよくとれたそうだ。いつもセーターを5枚重ね着し、マツタケを見つけると、セーターを1枚ずつ脱ぎ、裾や袖を縛って、マツタケをいれた。帰る時にセーターを全部使ってしまうくらい、マツタケはたくさんとれたと、たっさんはグラスをあおって愉快そうに語った。
雁皮を求めて山へ
翌日目覚めると、天気予報通りの晴天だった。朝ごはんを食べて外に出ると、この日我々に同行し、調査のサポートをしてくれることになっているイマイ君が鎌を研いでいた。鳥の世話などの朝作業はもう終えていた。やがてたっさんがやってきた。さっそくイマイ君に鎌の研ぎ方の指南を始めた。
たっさんとイマイ君、それぞれの軽トラの2台で出かける。わたしはたっさんの軽トラの助手席に乗った。
たっさんの実家のある地域は、林業や養蚕、炭焼きが生業の中心だった。たっさんの高校時代に改良普及員によって花やキュウリの特産化が進み、それとともに炭焼きをしていた雑木林は植林の杉に変わっていった。たっさんの住んでいた地域には佐波川が流れている。奈良の東大寺を再建した重源が堰をつくり、木材の運搬のために利用した川だ。その東岸は黒土で、雁皮もマツタケもとれない。お祖父さんの時代にはマツタケはとれたらしいが、たっさんが子どもの頃にはもう生えていなかった。たっさんは中学2年生のときに、東岸から西岸に引っ越した。
1時間近く車を走らせて、目的地についた。いったん車をとめたたっさんは、道具の支度をした。厚い鎌、薄い鎌、鉈、鉈鎌、切りだし小刀。どれもよく手入れがされていた。なるべく歩く距離を減らそうと、さらにぎりぎり進めるところまで車を進めた。5分ばかり進むと、たっさんが中学生時代に野球をしていたという真砂の広場があり、そこに車を停めた。たっさんは鉈で灌木を切り、それで即席の杖をつくって、鉈ともにわたしに渡した。イマイ君は朝研いだばかりの鎌を片手に、たっさんは左手に杖、右手に鉈鎌をもち先頭にたって歩き始めた。
2月で葉も落ち、雑草の勢いもないので、それほど荒れてはいなかった。木々を挟んだ向こうには佐波川の支流が流れている。わたしたちは川の上流に向かって歩いた。まだこのあたりの道は人が踏み固めたものだ。丸木橋がかかっていたが、その一部は腐っており、苔が生えていた。道々、たっさんが鉈鎌で行く手を遮る木を払っていく。野ばらも灌木も一発でスパッと刈り落とす。こうすることで、道を作りながら歩いた場所をマークし、道に迷うことを防ぐ。たっさんは、前日の下見の際にも切り跡をつけていた。いったん方向に迷ったが、切り跡が手掛かりになった。
歩きながら、たっさんはウサギがノイチゴの茎を食べた後や、イノシシの踏みあと、鹿が木の皮を食べた後などを見つけた。アケビの木や、においのある木のことなどを教えてくれた。桜の木を仰ぎながら、これが花をつけたら見事だろうと語り、柱にしたら素晴らしいと語った。たっさんは、山の中にある様々なものの痕跡、何かを生み出す資源を見出していた。
たっさんは石組みや水がめの跡を指さし、そこがもともと田んぼだったということを教えてくれた。そんな山田が放棄されたあと、杉が植林されているところもあれが、ほとんどが整備されていない。若くして働き手だった夫婦が亡くなり、おばあさんと子どもだけが残った。子どもたちは親戚に預けられ、家にはおばあさんだけが残ったが、田んぼには手が回らなくなり、より手間の少ない杉が植えられた。たっさんよりも6歳下だったこの家の娘はとても賢かったけれど、大学に行かせてもらえなかったとたっさんは語った。
かつてはこの山全体で2町(2ヘクタール)ほどの山田があった。
1時間ほど歩いたが、雁皮は丸木橋のそばにあった1本しか見つからない。たっさんは歩きながら、「おかしいのう」と何度もつぶやいた。「エキ(谷)に雁皮が生えるから、帰りはサワを歩こう」と言った。雁皮の種は川に流れ、サワで育つのだそうだ。少し荒れた道を、鎌で刈りながら進む。3本くらい群生したものと、1本だけ生えていたものを見つけたが、2時間以上あるいて、3か所しか雁皮を見つけることはできなかった。
人が山を歩いて、木を伐り落としたあとに光がさしこむ。雁皮の生息に不可欠なこういう環境がなくなったから雁皮が生えなくなったのではと、わたしとイマイ君は話したが、たっさんは松くい虫の駆除薬の空中散布が影響しているのではないかと語った。松枯れを防ぐための空中散布の結果、マツタケやヤマユリが生えなくなり、ヤツメウナギやヤマメがとれなくなったという。
たっさんが目の前で雁皮の採集の仕方を教えてくれた。小さい幹は残し、大きい幹を刈る。手で初めに小口の部分だけひとまわり皮を剥いだうえで、裂いたところをつまんで末端まで剥ぐ。一部硬いところだけ、鉈鎌を使う。適当な長さで枝を折り、甘皮(白皮)を残さないよう剥いでいく。当時は秋口に取りに来たから、もっと雁皮はみずみずしくて皮が剥ぎやすかった。稲刈りが始まる前のことだ。「百姓(仕事)が始まったらやっている暇がない。むかしは稲刈りを一か月やっていたから、その時期にしか暇はなかった」とたっさんは語る。今よりも稲刈りの収穫時期は遅く、そして機械化されていないので稲刈りにひと月ほどかかっていたという。
たっさんは剥いだ皮を丸めて、束にして、雁皮のしなる枝を紐にして縛った。中学生の時は、束にしたらリュックのような袋にいれて持ち帰ったという。そういう作業はたっさんが高校を卒業し、就職したらやらなくなった。
時を超えた「発見」
山を下りて、たっさんの実家の隣の家に住む女性に話しを聞きにいった。
80代後半のミエコさんは、嫁入りしてこの地域に来た。実家のある地域では雁皮の採集はしていなかったという。雁皮とりには、たっさんのお母さんのほかこの地域出身の親戚のお姉さんと一緒にいったという。若い頃、たっさんが鎌をもって山をかけまわっていたのと違い、女性たちは遠くまで行かず、足を踏み入れやすく、雁皮がよく生えている谷の縁を歩いた。
「花が咲くころじゃからね。それでわかりよりました」
とミエコさんは教えてくれた。するとたっさんが意外だという顔で聞き返す。
「おばさん、春先にとりにいきよった?」
「そうじゃね。あの頃はやりよりました。手で皮をとって、干してねえ、町の方にほうている(買っている)ひとがおりましたから。それにもっていきよりました。いっときじゃったからね」
雁皮を刈りむいた黒皮は、袋にいれた。うちに帰ってから、薄皮を剥ぎ、白皮だけにして乾燥させた。それを川下の町にある問屋にもっていったという。
ミエコさんが繰り返す。
「雁皮は黄色い花が咲いちょるから、雁皮がようわかりました」
するとたっさんは
「おばさんら花をみてとりよったんじゃ。ぼくは木を見てとったからね。秋ごろからとりにいった」
と返した。
春先、女たちが花を探しながら川のほとりを歩き、雁皮を探していく。歌に歌われるような風景が脳裏に広がる。
帰り際、たっさんは、「夫はもう狩りに出ることがないから」とミエコさんからイノシシにとどめを刺す槍をもらい受けていた。
参考文献
- トム・ヴァン・ドゥーレン 2023『絶滅へ向かう鳥たち』(西尾義人訳)青土社