鉄道の駅がない町で育った子どもの頃の私にとって、唯一の自由な移動を実現する手段が自転車だった。学校が終わると、たいした用事もないのに友達と自転車で走りまわった。暑い夏の日に、30km以上離れた白馬村のジャンプ台まで汗だくになりながら漕いだこともある。
思い返してみると、どれも明確な目的地があったわけではなかった。移動そのものが目的であり、自由を感じるものであり、それを味わうためにペダルを漕いでいたのだと思う。
自転車が生み出すファンタジーと人力の推進力
自転車は、物語の中では、しばしば夢想や空想と結びついてきた。映画『E.T.』のワンシーンは、その最たるものだろう。10歳の少年とカゴの中の宇宙人が、住宅地の外れから自転車が空へと舞い上がり大きな満月を背に黒いシルエットとなって飛んでいく。言わずとしれた、映画史に残る名シーンである。自転車には、現実をほんの少しだけ明るくするような、ファンタジーを生み出す力がある――と人びとは信じてきた。
自転車を前に進めるのは、ガソリンではない。自らの脚から生まれた推進力が、チェーンを伝い、地面を蹴り、風となって全身に戻ってくる。これは、歩きや走りの速度では感じられない、かといって他の乗り物でも感じられない自転車固有のものだろう。
ジブリ作品『耳をすませば』は、そんな人力の推進力がもたらす感動と人生の重なりを、これ以上ないかたちで描き出した作品の一つだろう。
物語のクライマックス、聖蹟桜ヶ丘がモデルになったと言われる坂が多い町で、雫を自転車の後ろに乗せた聖司が、急な坂道をふらつきながらも一漕ぎ一漕ぎ登っていくシーンがある。バイオリン職人になるという夢へと向かう決意、その夢に雫を「乗せていく」覚悟が、初冬の朝の白い息と不安定なハンドルさばきで坂を登る姿に重なる。
しかし、印象的なのは、このあとのシーンである。「お前を乗せて坂道のぼるって、決めたんだ」という聖司の言葉に、雫は「そんなのズルい!」と言って自転車を降り、「お荷物だけなんてヤダ! 私だって役に立ちたいんだから!」と、自分の足で自転車を押して共に坂をのぼることを選択する。誰かに「運んでもらう」ことをやめ、自分なりのやり方で前へ進もうとする。雫の言葉は、ふたりがこれから歩んでいく道のりを、より平等で対等なものに変えようとする少女の宣言のようにも聞こえる。
改めてこのシーンを見直したところ、二人乗り、無灯火、逆走というかなり危険な運転をしていることに気がついた。それは、世の中の規範的な正しさを無視し、これから困難や向かい風に立ち向かっていく覚悟、周りの声に流されないという強い意思、そして、見えない未来を自らの力で切り開いていく決意を示すメタファーなのだろう。
女性の社会的・政治的な自由の獲得と解放の歴史
自転車がもたらす原動力は、個人だけのものではない。歴史を振り返ると、それは階級の差をなくし、身体を浄化し、精神を解放し、心を自由にするものとして語られてきた(ローゼン, 2022=2025)。
アメリカにおける女性参政権運動の指導者スーザン・B・アンソニーは、自転車を「自由のマシン(freedom machine) 」と呼び、「自転車ほどに……女性の解放に貢献したものは世界に類がない」と、その功績を称えた(Bly, 1896)。自転車は、個人の移動の自由を拡大しただけでなく、社会的・政治的な自由と解放の象徴でもあったのである。
女性解放運動で自転車が果たした役割は計り知れない。ジョディ・ローゼンによれば、19世紀から20世紀への変わり目、アメリカやイギリス、およびヨーロッパ大陸の女性運動は、自転車を変わりゆく価値観の象徴として、また抗議運動のための実践的な手段として積極的に用いていた。たとえば、それまで徒歩の移動が主だった女性たちが自転車で移動できるようになったことで、行動範囲が広くなり、広域で情報を広め、仲間を集めることができるようになった。自転車は、「女性は肉体的に弱い存在である」という既存の価値観を吹き飛ばし、それまでにない自律性を女性たちにもたらしたのである(ローゼン, 2022=2025)。
そうした女性たちのさまざまな「革命」と自転車の関係を描いたのが、ハナ・ロス著『自転車と女たちの世紀――革命は車輪に乗って』である。この本を読むと、参政権を求める女性活動家(サフラジェット)たちによる権利の獲得に向けた道のりが、自転車による移動距離の拡大と共にあったことがわかる。また、第二次世界大戦において女性たちも参加したレジスタンス活動のなかで、自転車が重要な役割を担っていたことが詳細に描かれている。日本を含む多くの国で、第一次・第二次世界大戦を通じて女性が社会を支える役割を引き受けたことが、参政権付与の一つの大きな背景となったことは、比較的知られた事実である。しかし実は、いまでは当たり前となった権利の獲得と変革の背景にはいつの時代も自転車があったのである。
ママチャリをめぐるミソジニー的まなざし
自転車の普及を語るうえで外せないのが、「ママチャリ」である。女性、とくに主婦の日常に寄り添うかたちで発展してきたこの実用自転車は、価格の手頃さと安定したつくりもあって、性別や年齢に関係なく、誰もが自転車にまたがれるものとして愛されてきた。買い物に、送り迎えに、通勤に、駅までのちょっとした移動にと、気がつけばママチャリは、日本の街の風景に融け込んでいる。
宮田浩介編『世界に学ぶ自転車都市のつくりかた』を読むと、そうした光景が、じつは世界的にはかなり特別なものであることに気づかされる。世界各地の自転車都市を歩き回った(乗り回った)本書の著者たちは、日本の自転車文化、とりわけ「ママチャリ」文化の先進性と普遍性を教えてくれる。
あまり知られていないが、じつは日本は自転車利用大国である。移動の際にメインの交通手段として自転車が使われる割合(交通分担率)は16%で、これはオランダやデンマークに次ぐ、世界第3位の数字である。また、日本の自転車利用度と利用層の幅広さは国際的にも注目されており、自転車フレンドリー都市の格付けで知られるコペンハーゲナイズ・インデックスでは、2011年に東京が第4位に位置づけられている。そこでは、自転車の浸透度や女性ユーザーの多さなど、さまざまな点で他都市を刺激する存在として紹介されている(宮田編,2023:183)。
興味深いのは、世界的なモーターリゼーションの波のなかで、日常的な自転車文化が姿を消していった国が多いなかで、日本ではその文化が“生き残っている”という指摘である。その代表例が、まさに日本の「ママチャリ」文化なのだ。ただし、ここで誤解してはいけない、ママチャリは日本特有の乗り物でも、ガラパゴス的な珍種でもなく、日常自転車先進国ではごく当たり前に見られる、オーソドックスな車種の一つなのである。たとえばオランダでは、「オマフィーツ(おばあちゃん自転車)」と呼ばれるかなり近い形態の自転車がある(宮田編,2023:184)。
では、なぜ日本のママチャリは、国際的には「先進的かつ普遍的」な存在でありながら、国内ではしばしば軽んじられてきたのだろうか。ママチャリをめぐる言説は、よりスポーティーな自転車との相対的な位置づけのなかで「ダサい」「かっこ悪い」とされてきた。宮田らは、そこに疑問を投げかける。日本の日常生活の一部としてすでに深く根づいているにもかかわらず、ママチャリは十分に評価されていないのではないか、と。
「女性の日常自転車利用を下に見るミソジニー的な現象とも考えられるママチャリ軽視は、日本の自転車政策が世界の目指すインクルーシブな方向性から外れてしまっている原因のひとつ、克服すべき課題であろう(宮田編,2023:184-185)」という一文は、ママチャリをめぐる日本社会の状況が、女性の日常的な移動を見下すミソジニー的まなざしによって形づくられてきたことを、鋭く言い当てている。
ママチャリと都市化と家族の戦後体制の確立
このようにママチャリに自転車がもつ普遍性や可能性を見出す議論がある一方で、ママチャリという呼び名も含め、その存在自体がジェンダー化された移動の問題性を示していることを示唆する議論もある。
社会学者の田中大介は、「まちを縫う『ママチャリ』――ジェンダー化された都市のスピード」と題する論考のなかで、ママチャリという自転車の様式と、それをめぐる言説が、日本の都市空間にどのように現れ、いかなる効果をもち、どのように変化してきたのかを歴史的にたどりながら、近代日本における女性と都市のモビリティの実像を描き出している。
そもそも、なぜあれは「ママチャリ」なのだろうか。ここまで当たり前のように使ってきた呼び名を、あらためて問い直してみる。なぜ、「パパチャリ」は存在しないのだろうか(文末付記参照)。少し立ち止まって考えてみるだけでも、特定のタイプの自転車と、それによる移動のあり方が、いかに強くジェンダー化されているかが見えてくる。
田中によれば、自転車に関連する技術改良や制度変更のプロセスは、日本社会における家族の戦後体制と呼ばれる家族モデルの成立と結びつけて考えることができる。高度経済成長により都市化が進むことで、男性正社員を中心とした企業社会と「夫は仕事、妻は家事・育児」という性別役割分業をもとにした家族体制が成立した。その過程で、自転車もまた、主婦向けに(まさに“ママ”向けに)調整されていったのである。つまり「妻」や「母」というジェンダー役割を遂行するために、女性用自転車には荷台・カゴ・補助イスなどのオプションが次々に追加され、改良されたのだ(田中,2023:204)。
こうして変化を伴いながら普及したママチャリは、移動をめぐり戦後の都市と家族が選び取った一つの答えである。同時に、その枠組みからこぼれ落ちる移動の可能性や、負担の見えにくさをも乗せながら、今日もママチャリは走っているのかもしれない。
電動アシスト自転車の登場がもたらしたもの
1990年代以降になると、ママチャリを含め自転車は「電動化」という新しい段階へと入っていく。漕いだ分しか進まなかった自転車が、漕いだ力以上に進むようになったのは革命的だった。坂道が多い地域での移動、重荷を背負っての移動、身体に不安を抱えながらの移動、こうしたあらゆる“自力”の移動が“電力”のアシストによって部分的にではあるが解放されたのである。もし、あの頃の通学に電動アシスト自転車があったなら(正確に言えば、買ってもらえて、学校からも許可が出たなら)、どれほど快適な毎日になっていただろうか、とつい想像してしまう。
電動自転車/電動アシスト自転車には、ジェンダー化された自転車移動をもう一段階「解放」へと近づける、大きな可能性がある。いや、実際にはすでに解放は進んでいる。利用する女性たちの声に耳を傾けた研究では、つぎのような語りが紹介されている。ペダルを踏むたびに、「これまではできないと思っていた移動」が一つずつ解けていく感覚が、そこにあることがわかる。
「ここ数年は子育て以外何もしておらず、この新しい自転車を手に入れるまではサイクリングにはあまり興味がもてませんでした」
「私にとって、費用は別として、これは自転車利用の民主化と言えます。私のように体力や筋力が弱くて、普通の自転車では坂を登れない、ましてや子どもを乗せて坂を登れない人でも、自転車での移動がもっと民主的になるんです。体力や筋力に関する不安がなくなるんです」(Wild, Woodward and Shaw,2021)
ここまで書くと、「ママチャリが電動化されたおかげで、女性たちは解放されました」で話を閉じたくなる。そうできたら、どれほど気持ちのよい、希望に満ちた結論だろうか。しかし、電動になったからといって、ジェンダー化された自転車移動の経験が一気に平等になるわけではない。移動の現実には、いつも複雑な両面性がある。
たとえば、家族と暮らす女性を対象にした多くの調査では、電動自転車/電動アシスト自転車の「ありがたさ」として、まず挙げられるのが「子どもの送迎における負担の軽減」であることが明らかになっている。また、男性よりも女性のほうが「家族」や「コミュニティ」に対する役割を意識しながら電動自転車の利用を語る傾向が強いことも示されている(Parnell et al., 2023)。
別の調査では、女性は荷物や子どもの「運搬」のために電動自転車を使うと答える割合が高く、男性は「自分個人の用事」を挙げる傾向が高いという結果が報告されている(Meila and Bartle, 2022)。娯楽やレクリエーション目的での利用自体は、男女で大きな差はない。しかしその場面でも、男性は一人で乗ることが多く、女性は複数人を乗せていることが多いという(Van Cauwenberg et al., 2018)。男性は“自分の移動のために”電動自転車/電動アシスト自転車を使い、女性は“誰か・何かのために”それを使う傾向があるのだ。
そう考えると、電動自転車/電動アシスト自転車には二つの顔があることが見えてくる。一つは、女性の移動の機会と自由を一層解放していくための道具としての顔。もう一つは、共働き時代になおもケア役割を中心的に担う妻や母としての労働に「スピード」と「効率」を与えることで、結果的にその負担を増幅させてしまう道具としての顔である。もちろん、家事・育児を担う男性が多くなっていく兆しはあり、夫婦兼用として用いられる割合も高まっているが、電動自転車は、より多忙になっていく女性のジェンダー役割の増幅・加速を「アシスト」してしまうこともある/あったのではないだろうか(田中,2023)。
女性の社会進出が進み、共働き家庭は増えている。しかし一方で、ジェンダー役割の平等化は十分に進んでおらず、そのギャップの分だけ、女性が「仕事も家庭も」背負い込み、責任をもってきちんとこなすことが強く求められる状況が生まれている。
こうしたなかで、「仕事と家庭をうまく両立しているバランスが取れた女性」「高いポテンシャルを持つ女性」といった理想像を掲げ、ジェンダー不平等やワーク・ライフ・バランスの問題を、「すべては本人の努力と自己最適化で解決できる」と解釈し、構造的な問題ではなく、個々人(とりわけ女性)の自己責任へとすり替える潮流がある。それが、「ネオリベラル・フェミニズム(Rottenberg, 2018=2025) 」と呼ばれる考え方である。
このネオリベラル・フェミニズムの視点から見直してみると、本来は「誰か・何かのために」自転車を漕ぐ女性たちを取り巻く性別役割分業や構造的・制度的なジェンダー不平等そのものに光を当てるべきときに、電動自転車/電動アシスト自転車は、効率的で生産的に物事をこなす「自律した自己」をつくりあげる手段として理想化され、むしろ従前的な役割の再固定化を促す危うさも秘めているのかもしれない。仕事も家庭も完璧にこなし、なおかつ笑顔で颯爽と街を駆けるかっこよさを兼ね備えた「できる女性像」という理想を再生産してしまうことは避けなければならない。なぜなら、その理想を現実に体現できるのは、新自由主義的な競争に適応でき、かつ経済的・社会的な特権を持つ、ごく一部の女性に限られる可能性が高いからである。
電動自転車/電動アシスト自転車は、たしかに女性の移動に新しい解放をもたらしている。しかし同時に、ケア役割や責任主体としての女性を、別のかたちで再び固定してしまう側面も持ち合わせている。ネオリベラル・フェミニズムで理想化される「完璧なバランス」など、本来はきっとどこにも存在しない。ときにはふらつきながらも、自分のペースで進んでいくことを許してくれる、自転車が教えてくれるそんな感覚を手放さないことこそ、「もっと速く、もっと効率的に、もっと生産的に」と急き立てる社会のなかで、自らの生を自分のものとして引き受けるための、ささやかな抵抗なのかもしれない。
参考文献
Bly, N. (1896) Champion of Her Sex: Miss Susan B. Anthony, New York World, 2 February.
Melia, S., & Bartle, C. (2022). Who uses e-bikes in the UK and why?, International Journal of Sustainable Transportation, 16(11), 965–977.
Parnell, K. J., Merriman, S. E., & Plant, K. L. (2023). Gender perspectives on electric micromobility use. Human Factors and Ergonomics in Manufacturing and Service Industries, Human Factors and Ergonomics in Manufacturing, 33, 476–489.
Qu, Y., Wang, Q., & Wang, H. (2025). Urban Built Environment Perceptions and Female Cycling Behavior: A Gender-Comparative Study of E-bike and Bicycle Riders in Nanjing, China. Urban Science, 9(6), 230.
Rosen, J. (2022) Two Wheels Good: The History and Mystery of the Bicycle, The Bodley Head Ltd.(=2025, 東辻賢治郎訳『自転車――人類を変えた発明の200年』左右社)
Ross, H. (2021)REVOLUTIONS: How Women Changed the World on Two Wheels, Weidenfeld & Nicolson.(=2023, 坂本麻里子訳『自転車と女たちの世紀――革命は車輪に乗って』Ele-King Books.
Rottenberg, C. (2018)The Rise of Neoliberal Feminism, Oxford University Press.(=2025, 河野真太郎訳『ネオリベラル・フェミニズムの誕生』人文書院)
Van Cauwenberg, J., De Bourdeaudhuij, I., Clarys, P., de Geus, B., & Deforche, B. (2018). E-bikes among older adults: benefits, disadvantages, usage and crash characteristics. Transportation, 46: 2151–2172.
Wild, K., Woodward, A. & Shaw, C., (2021) Gender and the E-bike: Exploring the Role of Electric Bikes in Increasing Women’s Access to Cycling and Physical Activity, Active Travel Studies, 1(1).
田中大介(2023)「まちを縫う『ママチャリ』――ジェンダー化された都市のスピード」『ガールズ・アーバン・スタディーズ――『女子』たちの遊ぶ・つながる・生き抜く』法律文化社, 197-212.
宮田浩介編(2023)『世界に学ぶ自転車都市のつくりかた――人と暮らしが中心のまちとみちのデザイン』学芸出版社.
付記
ちなみに、本記事の公開後、自転車の専門家からパパチャリと銘打った商品があることを教えてもらった。商品写真をみると、ロングテール型のカーゴバイクで、タイヤは太く、子どもも乗せられる設計だが、週末に近場や公園などで使うことを想定していることが伝わってきた。商品紹介には、パパチャリの定義が書かれており、そのなかには「第1条:お父さんが格好良く乗れること」や「第5条:お父さんがカスタムを楽しめること」という文言が。男性は相対的に“自分の移動のため”に自転車を位置づけがちなことが、商品提供側の視点からも示唆されるものであった。
