名塩へ
名塩は、雁皮紙の産地である。1600年代に越前から名塩に伝わった鳥の子紙は、この地でとれる東久保土や蛇豆土、かぶた土、尼子土などの細かく、水に溶けやすい泥土に混ぜて漉く形に応用された。土の配合によって白や茶、青や黄色の紙に仕上がる。そうやって漉かれた紙は日焼けや変色もせず、長期間にわたって品質が保たれる。半間(90センチ)の間尺に合う紙は、間似合紙と呼ばれ、襖や屏風の表紙として利用される。狩野派が描く二条城の襖絵もほとんどが名塩の雁皮紙に描かれている[1]。名塩では、金箔を伸ばすための箔打紙も漉かれる。箔打ち紙は、金箔を叩いて伸ばす際に金箔の上に被せる紙で、その性質上強靭である必要がある。間似合紙に比べ雁皮や土の量が少なく、うすく漉かれる。そこに藁灰汁や柿渋などをつけて加工する。金箔を伸ばした後の箔打ち紙は、脂取り紙にもなる。かつては名塩和紙の需要が高く、地域内の各地で雁皮の紙が漉かれたが、今は2軒のみになっていた。
名塩は六甲山系にあり、その森林の中には雁皮が多く自生してきた。今はそれほど多くはとれず、六甲山系以外からももたらされる[2]。
わたしが名塩を初めて訪れたのは、2023年の2月のことだ。朝8時前に尼崎からJR福知山線に乗った。宝塚に近づくころには西側からは六甲山地が近づき、平野がぐっと狭まる。宝塚を超えて武庫川に沿って走ると、やがて山を抜け、西宮名塩駅に至った。駅を出ると、丘陵に森林が広がるとともに、集合住宅がへばりつくように立っていた。斜面を登っていく細長い建造物が見えた。近づくと、それは山を登るエレベーターであることが分かった。真ん中の階段を挟んだ両サイドに二本のエレベーターがあり、斜めに斜面を登っていく。お金が必要なのではないかと少しひるみながら、しかし特に何の注意書きもないのでそれに乗り込む。一番上の階のボタンを押した。エレベーターを降りると、その上にも宅地が広がっていた。縦横にまっすぐな道路が走り、庭のある住宅が並んでいた。住宅地を抜けると、道路を挟んで森林が広がっている。そこにナシオン創造の森育成会(以下、育成会と略する)の方々との、待ち合わせ場所があった。
指定された9時になる前から、育成会のメンバーが集まってきた。みなトレッキングシューズにスパッツをつけており、作業用のカッパを着ていた。腰回りには鋸などの道具がぶら下がっている。メンバーは中高年の女性が6名、男性が3名、みなわたしよりも年長の方々だった。全員が自己紹介をしたあと、ヘルメットをかぶって、この日の作業現場に向かって森の中を巡回するように整備された道を歩いた。砂利の上に草が広がる原っぱにたどり着いた。ここで侵入して来たマツや他の雑木をきった。大きなマツはチェンソーを使って倒し、残りはのこぎりで切っていった。私ものこぎりを借りて、マツや野バラを切った。
代表のナカオさんがわたしに声をかけ、14ヘクタールにわたる森の中を案内してくれた。ところどころに伐採された木をつかった階段のある林道を通って、アラカシやスギ、コバノミツバツツジがそれぞれ生えている場所、キノコを栽培する場所を歩いていく。放置しておくと山が暗くなるため、定期的に木を切り、陽がはいる状態を維持する。それが育成会の保全活動の基本的な方針だ。昔の人が暮らしの中で利用していた「循環する山」を理想にしていますと、ナカオさんは語った。育成会では森の保全活動だけでなく、子どもたちや、地域住民に向けた森林体験の場づくりや、植物や動物の生態調査もしている。雁皮はその生態調査によって、育成会の人びとに見いだされた。
西宮名塩ニュータウンと、ナシオン創造の森育成会
西宮名塩ニュータウン(「創造の丘ナシオン」を愛称とする)は、東西約2km、南北約1.5km、標高差250mの丘陵地にある。紙漉きが盛んだった名塩にできた住宅地で、その東部の何軒かの農家と周りに広がる棚田の後に建設された。1970年に兵庫県住宅供給公社が用地買収に着手し、1978年に宅地開発公団へ事業を引き継いだ。1981年に宅地開発公団は、日本住宅公団と統合し、住宅・都市整備公団となった。1972年に81.6ha、9,000人とされた都市計画は、1985年に243ha、16,000人、1988年に面積は変わらず12,000人に変更された。1991年に街開きが行われた。1986年には福知山線の新駅として西宮名塩駅が開業し、大阪や神戸へ通勤・通学しやすくなった。わたしが乗った斜行エレベーターは、60メートルの高低差のある西宮名塩駅と住宅地を結ぶもので、1991年9月に運行を開始した。当時の資料によれば、単にアクセスの確保をするためだけではなく、この街のシンボルとして設計され、昇降路および天井面をすべてガラス張りにしたとされる[3]。
ナカオさんは、1995年に大阪府内北部から夫と子どもとともに移住してきた。育成会のメンバーにはナカオさんと同じようにナシオンに住む人もいれば、近隣のニュータウンに住む人もいる。
育成会が活動するこの森は、駅の北側に広がる東山台の里山だった。もともと名塩の人びとの入会地で、スギ・ヒノキの人工林と、クヌギやコナラ、アカマツが中心の雑木林だった。のちにニュータウンの都市計画の一環として買収されるが、買収後、人の手が入らなくなったことで荒れ、光の入らない暗い森になった。住宅地に隣接する森は、土地開発の影響を受けることになる。バブルの崩壊と阪神大震災を経て、2001年、都市開発は途中で終了し、宅地の造成は終わった。そして、宅地の東側にあたる東台の14ヘクタールあまりのこの森林は、住宅地に造成される予定だった区画を含めて、「創造の森」として整備されることになった。
当時の森の整備・保全の主体は住宅・整備公団だった。やがてニュータウンの住民が保全活動の体験会に参加するようになり、その後、県の助成を受けながら、自治会活動の一環として里山の保全活動が位置付けられた。
住宅・整備公団の業務は、2004年以降は都市再生機構(UR都市機構)に移管された。この流れの中で、2006年に創造の森の整備・保全を住民が中心となって行うことになり、2007年にナシオン創造の森育成会が結成された(用地は、都市・開発公団を民営化してつくられたUR都市機構が管理したあと、西宮市へ移管されている)。
ナカオさんの話では、自治会活動の頃、住民たちは木にハンモックを吊るしたいとか局所的なアイデアしかでず、広大な森の保全の全体像を考えることはできなかった。公団も森の中の階段の整備などは行ったが、どのような山にするのかという具体的なビジョンはなかった。当時の活動は自治会員に限られ、地域外からは参加できなかった。育成会を結成するにあたり、ナカオさんら中心メンバーは、森林とその保全についての専門知識を学び、森林インストラクター[4]の資格をとり、チェンソーや刈り払い機の取扱い作業従事者となる講習も受けた。週2回の定例活動に加え、生態調査や遊歩道整備の活動などを行った。そして広大な森の中のそれぞれの場所の特性を見ながら、どのような森に育てていくのか山全体を17区画に分けて、それぞれの計画を定めた。継続的な間伐によって、当初薄暗かった森に光が入るようになっていった。
生態調査では100以上の樹種が確認された。創造の森の中に、10×10メートルの調査区画を3つ設けた。そのうちひとつは樹木をすべて伐採する区画、残りは常緑の樹木の伐採とし、その上で芽を出す樹木がどのように入れ替わっていくのかを数年間観察した。すると、びっくりするほどたくさんの樹木が芽を出したという。その中に雁皮があった。
2013年の秋、常緑の樹木を伐採し、落葉の樹木を残した区画で、雁皮が芽を出しているのを見つけた。2014年の調査では、さらに多く雁皮が芽を出していた。このことについて、育成会の人びとは次のように考察する。
40~50年前には、調査区Bのあたりに、たくさんのガンピ成木が生えていて、その後、東山全体が住宅開発業者の手に渡り、森の手入れがされなくなり、里山から放置林になって、常緑樹が優先する森に変わってしまいました。そのためにガンピも常緑樹の陰で減少して行ったものと思われます。しかし、ガンピが生前に作ったタネは地面に落ち、地中でじっと眠っていて、環境が発芽に適するように整ったので発芽してきたのでしょう。
私たちが植生調査の為、調査区Bは常緑樹をすべて切り倒したので、冬季には地面に太陽光がき、地中温度も高くなって地中の微生物生態系が、ガンピが発芽できる状態になったので、昨年発芽して来たものと考えられます[5]
埋伏種子が土の中で長期間生き延び、発芽に適したタイミングを見計らっているということは、御成婚の森で伐採作業の後に雁皮が生えてきたこと(連載第二回参照)を考える点でも、山火事の後に雁皮が生えてきたこと(連載第四回参照)を考える点でも重要である。そして、土の中で種が長い間死なずにいることが雁皮の特性の一つでもある。
やがて調査区画の外にも、雁皮が生えていることが分かった。
雁皮の栽培
名塩の土地に雁皮が自生することをたしかめた育成会の人びとは、2014年10月に福井県で長年雁皮の栽培法の研究を進めてきた今井三千穂先生を招聘した。調査区画を見た今井先生は、眠っていた実生の種が発芽したという可能性のほかに、生き残った根から発芽した可能性があると語った。今井先生の指導のもと、創造の森と近隣の山で雁皮の種を採取し、今井先生が教えた種の発芽を促進する方法で、翌年の4月にポットに播種した。山では水やりができないため、各自が自宅にポットを持ち帰り、管理した。今井先生は翌年もやってきて、生育に適した土地や肥料について指導し、さらに落葉樹のミズナラが自生している南側斜面の尾根筋が、雁皮の生育に適していると語った。夏はミズナラの葉っぱが直射日光を適度に遮り、若い雁皮を守る。冬は葉っぱが落ちて光が入り、雁皮を育てる。育成会の人たちは、2年間それぞれの自宅で育てた雁皮の苗を、2017年に今井先生が示した尾根筋に定植した。今井先生も生育の様子を見に、2017年にやってきた。
実生の雁皮を育てている区画を私に示しながら、ナカオさんは次のように語った。
わたしたちの活動は、雁皮の生産性を上げることが主目的ではない。今は、地元の子どもたちが雁皮紙を漉く体験をするために提供することはあっても、和紙職人には提供できていない。和紙職人に雁皮を提供するためには、もっと量が必要。しかし、種の採取はそれほど効率的に行えてはいない。雁皮の種の採取は、ちょっとさわってポロっと種が落ちる時期がいいといわれるが、風が吹くと落ちてしまうし、種をとるために毎日山に通えるわけではない。だから、わたしたちはむしろ地域の生態系の多様性を守るということの延長で、雁皮について考えている。落葉樹は残し、常緑樹を切る。常緑樹はそのまま放置するばかりではなく、階段の補修のために活用もする。光が入って、眠っていた種や根から雁皮が芽を出していく。そうやって森が回復する中の一つの現れとして雁皮がある。かかわり始めたころは、キノコがたくさん生えていて、マツタケもとれたし、コウジタケも生えていた。今、それらは見られなくなっている。そうやって自分のかかわりの中でも変わっていく森の中で、生物多様性を少しずつ回復させる――」
「雁皮がしっかり育っているのが、森がよい状態であることの指標」。2025年の2月に創造の森を再訪したときに、育成会の方が語っていた言葉である。その言葉を聞き、「わたしたちはむしろ地域の生態系の多様性を守るということの延長で、雁皮について考えている」というナカオさんの言葉がつながった。和紙の原料にするために雁皮を育てるというアプローチではなく、人間と森が持続的にかかわり続ける関係がまずあり、その中で雁皮が育っていくというイメージが浮かぶ。
ただ雁皮を育てるのではない。森を育てること、森と人間が持続的にかかわりあう関係をデザインすること。その人間と人間以外のかかわりあいのなかに雁皮もある。市場において付加価値を高くする、たくさん売る、それによって大きな収益を上げるという考え方ではない。そうではない。そもそも現時点で栽培が困難な雁皮は、このような人間の経済実践から逃れていく[6]。雁皮のリズムに同調することが必要なのではないか。それは、単に雁皮が生育している森を血眼になって探し徹底的に収奪するのでもなく、現在の人間の欲望を喚起し、それを十分に満たすために、あるいはバイオテクノロジーを利用して効率的に栽培するのでもなく、雁皮がおのずと生えてくる森を、雁皮の生育状況を絶えず確認しながら――それを雁皮と対話すると言ってもよいかもしれない――、雁皮とともにデザインし、つくりだすということになるはずだ。そしてそれは、人が一生で成し遂げることを越えるだろう。そのことを意識しながら、雁皮をただ利用するのではなく、雁皮とともに森をつくることを考え始める。
注
[1] 西宮市立郷土資料館分館名塩和紙学習館の資料からの記述。
[2] 江戸時代より、地元産だけでなく、紀州、四国産のものが大阪商人からもたらされた。地元産および周辺地域のものを「地雁皮」、紀州・四国産で直接仕入れたものは「出雁皮」、大阪商人から仕入れたものを「浜雁皮」とよぶ。1990年の記録によれば、地元や三田のほか、紀州・四国産の雁皮が浜雁皮として大阪を経由して送られており、繊維の長さなどの品質は地雁皮が優れるが、皮はぎをした後の歩留まり(皮を剥いだあとに、和紙の原料となる白皮の割合)は、外からもたらされた雁皮のほうが優れているとされている(財団法人名塩会1990:258)。
[3] この段落の記述は網野・遠藤(1994)、山口(1992)を参照。
[4] 一般社団法人全国森林レクレーション協会が認定する資格で、森林を利用する一般の人に対して、森林や林業に関する適切な知識を伝えるとともに、森林の案内や森林内での野外活動の指導を行う者のことをいう。
[5] ナシオン創造の森育成会ホームページ内「ブログ2013年7月11日」 https://www.nacionsouzounomori.com/2013/07/11/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%94%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F/
なお、この部分について書かれた以下の記述も重要な点を示唆している。
この現象で2つの大きなことを学びました。
1つ目は、近畿地方の森の生態系は照葉樹林が極相で、土地の攪乱子によって生じたギャップに最初に生えてくるのは先駆性夏緑樹と言われているが、これらの樹種は他から運ばれたタネがギャップに落ちて、発芽してくるものと考えていたが、それ以外に、この例のように、もともとその場所の土中で埋蔵されていたタネがギャップ生成によって、発芽してくる樹種もあることを知った。
2つ目は、植物のタネはその次の年に発芽するものとは限らず、土の中で発芽できる条件が整うまでじっとしていること。また、その条件は主として土中の微生物によって決まる。特にガンピは発芽率が低いと言われているが、いままで土中の微生物生態系を無視していたからなのでしょう。
[6] 人類学者の山崎吾郎は、人の一生という時間を前提とした経済実践が、経済的個人主義と親和的であり、森林や社会インフラといった数世代にまたがって成立する秩序とはかみ合わず、不調を引き起こすと指摘する。以下、山崎の言葉は雁皮とともに森をデザインするという着想につながるものである。
「山のなかでみることのできる多様な身体性とそれぞれに固有のリズムを顧みることなく、人間の身体が経験できる時間性だけで社会秩序を記述していけば、いくら人間ならざるアクターを無数に登場させたとしても、そこで成り立つ秩序は、ひとりの人間が経験可能な秩序にとどまってしまう。それは、自らの経験の範囲を越えて成り立つ秩序について無頓着であることによって、観察者の視点を特権化させる。自然物をアクターとして見立てて、場合によってそれとの共生を謳いながら、結局のところ観察者を中心においたネットワークが作り出されていくのだ。もちろん、それがただちに問題だということではないし、これは容易に避けられる問題であるとも思えない。だが、一般化された対称性や、自然のとらえなおしを正面から議論するのであれば、アクターの身体性とその固有のリズムへの着目は不可欠だと言えよう」[山崎2024:76]。
参考文献
財団法人名塩会1990『名塩史』西宮名塩財産区
網野正観・遠藤剛生1994「西宮ニュータウンシェラビア東山台 設計記録」『住宅・都市整備公団調査研究期報』102:99-129
山崎吾郎2024「山の時間、社会体のリズム――身体性と時間性をめぐる人類学的考察」近藤和敬・檜垣立哉『21世紀の自然哲学へ』人文書院、63-82
山口傳1992「西宮名塩ニュータウン」『エレベーター界』106:52-53
