第3回 家の現象学

 暮らしは家のなかで営まれる。その意味において、暮らしは家に条件づけられている。そうである以上、家をどのように捉えるのか、ということは、技術論の観点から暮らしを考える上で、無視することのできない問題である。

 ここでいう家は、必ずしも法的に登録された家屋だけを意味するわけではない。そうした家屋を持たずに生活する人も、この世界には存在する。それでも、どこかに自分が生活するための私的な空間を持つものだろう。路上生活者が無断で構築するテントや段ボールの家はその一例である。もちろんいつ撤去されるともわからない不安定さにさらされている点において、完全な家ではない。しかし、を不完全ならしめているのは、法の名のもとにそれを撤去する権力であって、家としての機能を欠いていることではない。

 したがって、家とは何かを考えるとき、その本質は、私たちの暮らしを条件づけているものである、という点から説明される。それがどのような素材によって構成されているのかは大きな問題にならない。鉄筋コンクリートの家屋も、洞窟も、それがある仕方で人間の暮らしを条件づけているなら、それは家である。壁がなく、その内と外を隔てるものが何も見てとれなくとも、人間がそこにおいて暮らしを営む場所は、家として理解されうるだろう。

 このように考えるなら、家の本質はその物質性のうちにはない、ということになる。たとえば動物のねぐらは往々にして人間の目にはそれとはわからない。しかし、そこで暮らしているものにとって、家ははっきりとした境界性をもって、目の前に立ち現れているに違いない。

 それでは、このような意味で理解される家は、どのような仕方で私たちの暮らしを条件づけているのだろうか。今回はこの問題を、オットー=フリードリッヒ・ボルノウの思想を手がかりにしながら、考察してみよう。

世界の中心としての家

 ボルノウは、二〇世紀半ばに活躍したドイツの哲学者であり、ハイデガーからの影響を強く受けながら、その批判的な克服を課題とした。彼が異を唱えたのは、ハイデガーの空間性に対する軽視についてである。ハイデガーは主著『存在と時間』において、存在の意味を時間の観点から分析した。同書は、時間に関しては豊かな議論を展開しているが、空間性に対する分析は相対的に不十分である。その点において、ボルノウは、人間の空間性に対しても徹底した現象学的分析が必要である、と主張する。その成果としてまとめられたのが、彼の主著の一つである、『人間と空間』である。

 同書においてボルノウは、ハイデガーの現象学の手法を踏襲する。彼は、日常的な世界における人間の経験をありのままに描き出すことにしたのだ。つまり空間を、科学的に捉えられる幾何学的な次元として見るのではなく、人間が生きる具体的な領域として記述しようとするのだ。

 では、そのように具体的に生きられる空間とは、どのようなものだろうか。ボルノウはそれを説明するために、「中心」という概念に基づいて考察を進める。私たちにとって空間は混沌としているものではなく、整理され、配置されている。ある特定の「中心」に基づいて空間が配置されるとき、私たちは初めてそれを空間と認識するのだ。

 たとえば、「私」から見える景色においては、より近くにあるものと、より遠くにあるものとが区別される。そしてそれを区別することが可能になるのは、近いとか遠いとかいう判断が可能になるようなある観点が存在する場合である。そうした判断を可能にする点こそが、この世界の中心なのだ。

 ただしこの中心は、「私」が今いる場所とは限らない。たとえば「私」は、海外旅行をしているとき、観光名所を目の前にして、依然としてとても遠くにあるもののように感じることがある。たとえそれに触れることができるのだとしても、「遠くにあるはずのものが目の前にある」と感じるだけで、その観光名所を身近に感じることはない。したがって、「私」にとって距離の経験を可能にする中心点は、いま「私」がいる場所ではないのだ。

 ではそれはどこにあるのだろうか。ボルノウによれば、それは「私」の家である。すなわち「私」は、自分が住む家をこの世界の中心にして、この世界の距離を経験しているのだ。たとえば海外旅行で、観光名所に行ったとき、私たちは自分の家からその場所がどれだけ離れているのかを、暗に意識する。それによって、目の前にあるものを、依然として自分にとって遠いもののように感じるのだ。

 この点において、ボルノウの哲学は『存在と時間』をある面では確かに乗り越えている、と言えるだろう。前回検討したように、ハイデガーは人間の空間性を道具の観点から考察し、その道具のネットワークによって形成される方域を分析しながらも、その方域において家はなんらの決定的な重要性も持っていなかった。そこでは、あたかも方域は、「私」が移動するのに合わせて自由に変異するかのように説明されていた。しかし、ボルノウはそうは考えない。「私」の世界性の準拠点は、「私」ではなく家なのだ。したがって家の外にいるとき、「私」は──ハイデガーの概念をあえて応用するのであれば──方域の中心を離れているのである。

家の再創造

 ただし、ボルノウにとって家は必ずしも所与のものであるとは限らない。もちろん、生まれたときから家があり、生涯にわたってその家に住み続ける場合には、家は所与のものとして捉えられるのかも知れない。しかし、生家を離れ、新たな土地で生活を始めるとき、私たちはこの世界に、それまで存在しなかった家を作り出すことが必要になる。ボルノウは次のように主張する。

人間が自分の空間のなかにあらためてそのような中心をみつけだすことが重要であり、また、さらに示されるように、人間の本質の実現ということがそのような中心の現存に結びつけられている場合に、人間はこの中心をもはや何かあたえられたものとしてみいだすのではなく、まずそれをつくり出さなければならず、またみずからすすんで自分の基礎をそこにしっかりときずき、さらにそれを外部からのあらゆる攻撃から防衛しなければならないのである。このようにして、中心を作り出すということは人間の決定的な課題となる。そして人間は、この課題を自分の家屋を建ててそこに住まうことにおいてみたすのである。しかし、外面的に住居を所有することでは、この課題をみたすのに十分ではない。むしろ、住居がこのようなよりどころをあたえるという性能を実現することができるためには、住居への内的関係こそ重要である。[1]

 ボルノウによれば、家を再創造するということは、決して、建材によって家屋を建築することだけを意味するわけではない。そうではなく、この世界に「中心をみつけだすこと」に他ならないのだ。家屋を建築するということは、こうした中心の再創造の具体的な実践として理解される。

 彼は、こうした課題は現代社会に特有の事態であると主張する。近代以前の伝統的な社会では、人々は生涯にわたって生家を離れなかった。それは、見方を変えれば、人生のなかで自らの空間的な中心が決して変わらなかった、ということである。家の場所が変わらないということは、そこを中心としてその外側へ広がる世界の配置も不変である、ということだ。世界は静的に固定され、安定した秩序を保っていた。「私」は、自分の家を馴染み深いものと感じ、同時に、その家との関係において、世界の最果てに対しても確かな感触を持つことができた。

 しかし、現代社会においては、交通技術の発達によって、人々は流動的に移動するようになり、生涯を通して同じ家に住み続けるということが少なくなってきた。賃貸など、期限付きの仮住まいをするライフスタイルも一般的になった。それによって、世界の中心は決して確固たるものではなくなっていった。中心の曖昧化は世界全体の空間的配置をも不確かなものにするのである。

 だからこそボルノウは、「自分の家屋を建ててそこに住むこと」が今日の「人間の決定的な課題となる」と指摘する。ただしそれは単に「外面的に住居を所有すること」を意味するわけではない。重要なのはこの世界に中心に設定することである。たとえ住居を所有しているのだとしても、それが自己にとって空間的な中心として機能しないことはありえる。それに対して、住居を中心化するための条件を、ボルノウは「住居への内的関係」と呼ぶのである。

家への内的関係

 ここで言われる内的関係とは、どのようなものだろうか。彼は次のように述べる。

人間はどの家屋においても、同時にこの家屋をさらに放棄することができるという内的自由を保持する必要がある。人間は、家屋の喪失によっても打撃があたえられることのない究極のものが、自分のなかにあることをしらなければならない。われわれは今日、それを実存哲学の含蓄ある意味で人間の実存とよんでいる。しかし他面、人間の住居がそこなわれやすいとか、自分の容器のなかで硬化していることの危険とかについてよくしっていても、それは、計画力のある理性のあらゆる手だてをつくして自分の家屋を建設し、そこで自分の生活の秩序をつくりだし、そしてこの秩序を、押し寄せてくる混とんとした諸力にたいする不断のねばりづよい戦いによってくりかえし防御するという課題から、人間をまぬがれさせはしない。[2]

 ボルノウはここで、「実存哲学」と家の関係を整理している。実存哲学の枠組みにおいて、人間はその本質において自由なのであり──正確に言えば、自由であることがその本質に先立つのであり──たとえ家を失ったとしても、その自由そのものは失われない。したがって、人間の自由そのものは家によって条件づけられていない。彼はこの自由を「実存」と呼ぶ。しかしこのことは、人間が家をめぐる問題から完全に解放されている、ということを意味しない。むしろ、「家屋を建設」し、「自分の生活の秩序」を作り出し、そしてその秩序を「不断のねばりづよい戦いによってくりかえし防御する」という課題は不可避のものなのだ。

 ここでは、家屋の建設に加えて、生活の秩序を創出すること、そしてその秩序を維持することが、人間の実存的な課題として挙げられていることに注意したい。すなわち、それが家を自己の空間的中心にするための、家への内的関係なのである。しかもボルノウは、この秩序を維持することが「不断のねばりづよい戦い」であると見なしている。それが示唆しているのは、生活の秩序が、それを破壊しようとする何らかの干渉を受け、その干渉に対して抵抗することが生活するためには必要である、ということだ。

 部屋は放っておけば散らかっていく。家具は時間が経てば劣化していく。食べ物は腐敗する。一時的に生活の秩序を作り出しても、何の手入れもしなければ、それらは時間によって自然に解体していく。生活の秩序を維持するために人間が戦いを挑むのは、この自然による解体の力に他ならない。

 だからこそ、ボルノウにとって家は人間の実存と整合する領域、言い換えるなら自由の空間なのだ。家とは、自然が支配する強制的な力に抗う場なのである。

 したがって、家が人間の空間的な中心となるための条件とは、家事である。家事をしなければ、家は自然の強制、時間の流れにしたがって解体していく。家事によって、人間は自分がこの世界のどこに位置づけられるのかを確信し、そこからその外側へ広がる世界に対して、確かなリアリティを抱くことができるのだ。このような発想は、労働を自然による強制への服従として捉えたアーレントと、際立った対照を示している。

 では、家事はどのようにして家を中心化していくのだろうか。次回はその連関をより具体的に検討してみよう。


[1] オットー・フリードリッヒ・ボルノウ『人間と空間』大塚恵一訳、せりか書房、一九七八年、一二〇-一二一頁。

[2] 前掲書、一三二頁。

シェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!