前回は、ボルノウの哲学を参照しながら、人間の生において家がどのような意味を持つのかを検討した。彼によれば、家は、「私」がこの世界において建設するべき中心であり、人間は家に対して内的関係を持つ。人間は家なしには存在することができず、人間の実存は家によって本質的に条件づけられている。この意味において家は、他の様々な技術的手段とは異なる特異な実存的重要性を持つのである。
ただし、ここで言われる家の建設とは、単に物体としての家屋の建築を意味するわけではない。むしろそれは、家を中心とした生活の秩序を創造することに他ならない。彼にとって家とはあくまでも秩序である。秩序を失ってしまうとき、家は家として存在できなくなる。
それでは、こうした秩序の創造、すなわち人間の家への内的関係とは、具体的には何を意味するのだろうか。今回は、こうした問題について、より具体的に考えていこう。
住みごこちの良さ
まずは、議論の出発点として、人間と家との間に内的関係が成立している状態が、どのように体験されるのかを考えよう。ボルノウは「住みごこちのよさ」という言葉で、一つの特徴的な気分として記述している。家が、世界における中心として機能しているとき、「私」はその家において住みごこちのよさを感じる。まずはこの主観的体験が、人間における家の意味を考えるための手がかりになる。
それでは、住みごこちのよさは何によってもたらされるのだろうか。彼はその具体的な条件をいくつか挙げている。第一に、「居住空間は隔離されているという印象をつくりださなければならない」1。つまり家は、その内側と外側を隔てるものであり、家の中に帰りさえすれば、外側からの影響を免れることができるという信頼がもてるものでなければならない。したがって、外側と内側が連続している家は、住みごこちがよくないだろう。
たとえば、牢獄を例に挙げてみよう。収容者はいつでも外部から監視されており、その眼差しから身を守るものは何もない。だからこそ牢獄が住みごこちのよいものになることはない2。 また、空間がちょうどよい大きさであることも重要である。「大きな空間はくつろげない作用をおよぼしがちである」3。確かに、だだっ広い部屋にいると、私たちは落ち着かない。だが、狭すぎるのもどうだろう。「ある程度の小ささは、住みごこちのよさにとってはむしろ有利であるように思われるが、しかし小さすぎるのは、やはり不安をおぼえさせるように作用しがちである」4。もっとも、日本の住宅事情を考えれば、小さな空間の住みごこちの悪さは、むしろ自明であるように思える。
さらに──これが今回の議論ではもっとも重要な点になる──「調度品」、つまりインテリアも住みごこちのよさを左右する。「壁紙もはっていない、調度品もない空間は寒々とした感じをあたえる」。5 ただし、何でもいいからインテリアがあればそれでよい、ということではない。「愛情をもって選ばれ、手入れされているということ」6 が必要なのである。つまり趣味に基づいて、何らかの必然性を持って配置され、定期的に掃除され、壊れたら修理されなければならない。それゆえ、「決定的な俗悪趣味や安っぽい大量生産品は不愉快な感じを与えるものである」7と、彼は断じる。ここから示唆されるのは、インテリアは安易に使い捨てられたり、シーズンごとに流行に合わせて買い替えたりするものであってはならないということのだ。
以上から明らかになるのは、家に対する内的関係とは、どのような家を選ぶのか、そこにどのようなインテリアを配置するのか、そしてそれらをどのように手入れするのかによって実践される、ということだ。言い換えるなら、こうした実践は、人間の生にとって単なる趣味的なもの、非本質的なものではなく、この世界に中心を定位する試みであり、実存の根幹に関わるものなのである。
インテリアによる生の表現
居住空間には、そこに住む者の実存が表現される。つまり、家はその人が何者であるのかを暴露するのだ。ボルノウは次のように述べる。
このようにして住居は、そこに居住している人間の表現となり、この人間自身の空間と化した区画になる。それゆえ、住居はさらに、当の人間が住まうことを理解している度合いに応じてしか、住みごこちのよいものにはなりえないのである。このことは、他人の住居においてもつねに感じることができるに違いない。諸物はいたわり保護するように使用されることによって、それをもちいる人の生活のなかにとけこまされていくにちがいない。それゆえ、どんな住居用の家具調度も、一式のまま買うのはよくないのである。そして、若い夫婦が初めて調達するものは、どの場合でも俗悪趣味のものではいけないが、しかしそれは初めはよそよそしく、そして冷やかなままであり、長いあいだ使用され、新しい品物が次第に買入れられ、他の品物がとりのぞかれることによって、さらにはたんに使い古されることによってさえ、徐々に同化されていくのである8 。
ボルノウによれば、インテリアは「そこに居住している人間の表現」である。どのような部屋に住んでいるのかを見れば、その人がどのような人間であるかもわかる。なぜなら、そこに存在するインテリアは、住む人の実存と密接に連関しているからである。
インテリアが生の表現である、といっても、決して、第一に人間の生があり、第二にその派生的・副次的表出としてインテリアを位置づけることを意味しない。人間はインテリアなしにこの世界に存在できないのであって、だから、インテリアは人間の生を表現すると同時に、それを可能にし、条件づけするのである。だからこそ、家と人間は内的に連関するのだ。
人間は誰もがかけがえのない存在であり、交換不可能な個性を持っている。「私」とあなたは違う。そして、誰もがインテリアによって条件づけられているのだから、「私」のインテリアとあなたのインテリアも違うはずなのである。だからこそ、ボルノウはここで、インテリアを「一式のまま買うのはよくない」と指摘する。
たとえばインテリアブランドのショールームに行ったとしよう。たとえそこがどれだけ素敵な空間だったとしても、それをそのまま自分の家で再現することは困難だ。そのブランドの商品を買い揃えても、ショールームのように素敵な空間にはならない。なぜなら、ショールームが架空の抽象的な人間に向けてカスタマイズされているのに対して、「私」は自分の家を自分自身に合わせて作りださなければならないからである。
だからこそ、インテリアは様々な出自を持つ品によって混成されなければならない。自分にとって統一感のある部屋を構成する一つ一つのものは、様々な場所からやってくる。蚤の市で見つけた机の横に、北欧デザインの椅子があったりする。そうした、ものの由来の多様性は、部屋の住みごこちを決して妨害しない。むしろ、一つのブランドで無理に「揃えよう」とすることの方が、住みごこちを毀損する可能性があるのだ。
こうした、インテリアの本質的な混成性は、その交代を可能にする。たとえば、ある年齢において最適だったインテリアが、歳を重ねるにつれ、あるいは家族の構成が変わることによって、しっくりこなくなる可能性がある。その場合には、インテリアは買い替えられ、調整が図られる。それは決して、その家の同一性を脅かすことにはならない。むしろ、そうした変化を何度も経験するなかで、それはより親しみ深いものとして感じられるのだ。
ここには、家に特有の歴史性が示されている。家とは、一度完成したら、その形を永続させるものではない。むしろ、そこに住む人の生の変化に合わせて、有機的に変化していくべきものだ。そしてそうした変化が家の現在を過去とつなぎ合わせるのだ。たとえば、一人暮らしをしているときに買った小さなテーブルを、その後結婚し、生まれてきた子どもの勉強机にしたとき、まるで部屋の一角に過去が守られながら現前しているかのような、そうした感覚を引き起こすのだ。
家の身体性
このように考えるなら、家はまるで、「私」自身の身体であるかのようである。人間の身体を構成している細胞は常に入れ替わる。生活習慣によって、肌が荒れることもあるし、体重が変化することもある。それと同様に、家──特にインテリア──もまた時間とともに入れ替わっていくし、「私」の習慣によって荒廃することもある。そして、私たちが自分の肌や体重をケアするように、インテリアに対しても適切なケアを行っていく必要がある。住みごこちを維持するためには、家をただ「住みっぱなし」にするのではなく、その場所に対してケアを行わなくてはならない。ボルノウは次のように言う。
人間によってつくりだされたこの秩序は、同時に人間の行為によって、すなわち、「生活」自らによって必然的にくりかえし消えうせ、それから、特別の苦労をはらって再建されなくてはならないのである。私がある物を使用したのち、ただちにもとあった箇所にもどしておかずに、不注意にそのままにしておくと、その物は「どこかその辺」の任意の場所に取り散らかっている9。
彼によれば、家の秩序は、人間がそこで生活することによって、少しずつ乱されていく。それに対して「私」はこの秩序を回復させなければならない。具体的には、部屋を片付ける、掃除する、ということによってである。
家の中のインテリアのすべてに定位置がある。それらの位置関係は、相互に照応し、使いやすさを反映した一つのネットワークを作り上げている。家の秩序はそのようにして成立するのだ。もしも、あるものを使用した後、「ただちにもとあった箇所にもどしておかずに、不注意にそのままにしておく」と、それは定位置を離れ、別の場所に配置されてしまう。すると、もともと形成されていたネットワークは崩壊し、秩序が成立しなくなる。それが「取り散らかっている」状態なのだと、彼は指摘する。
この意味において、家へのケアとは、さしあたり、インテリアを整理整頓することである、と言える。ただし、ここで注意するべきなのは、秩序の中心が置かれるべきなのは、住む人間の住みごこちの良さであって、単なる見た目ではない、ということだ。
たとえば、外見的には、極めて整理整頓されている家であっても、暮らしづらく、なんだか落ち着かない空間なのであれば、その家はそこに住む人間との内的関係を有していない。
反対に、散らかっているように見える家であっても、そこに住む人にとって住みごこちがよいのであれば、それは散らかっていないのである。散らかっている、ということは、ものの定位置が崩壊していることを指す。だが、定位置がどこにあるのかは、その家に住んでいる人間にしか決められない。したがって、たとえば、床に本が山のように積まれていたり、机が書類で覆い尽くされたりしていても、その人がそこで生活でき、仕事をこなせるのであれば、その空間は散らかっていない。むしろ、人柄を雄弁に表現する空間であるようにも思える。
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さて、二回にわたってボルノウの哲学を眺めてきた。彼は、ハイデガーの現象学的分析の方法を踏襲しながらも、人間の空間性を方域へと拡散させることなく、家という特別な場所が人間の生にとって持つ実存的な意味を明らかにした。目指していたのは、時間性の観点から人間存在に切り込んだハイデガーに対し、その空間性への適切な評価を与えることであった。
ただし、ボルノウは、家を単に空間的なものとして論じているわけではない。インテリアは、買い替えと再配置を経験することで、時間的にも変化していく。それは過去と現在を結び、「私」の歴史を体感させるものでもあるのだ。この意味において、家には同様に、独自の時間的な次元が備わっている。
次回は、新たな哲学者の門戸を叩き、こうした家の歴史性について、さらに考えを深めてみよう。とりあげるのは、二〇世紀フランスの哲学者、ガストン・バシュラールである。
注
1 オットー・フリードリッヒ・ボルノウ『人間と空間』大塚恵一訳、せりか書房、一九七八年、一四三頁。
2 もちろん、収容者が外部からの監視を完全に無視することができる精神状態に達すれば、あるいは、牢獄も住みごこちがよくなることもあるかも知れないが、それは例外的なケースであろうと推測できる。
3 前掲書、一四三頁。
4 前掲書、一四三頁。
5 前掲書、一四三頁。
6 前掲書、一四四頁。
7 前掲書、一四四頁。
8 前掲書、一四四頁。
9 前掲書、一九八頁。
